2015年07月26日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第27回「使徒言行録10章34〜48節」
(13/4/7)(その2)
(承前)

 しかし、ユダヤ教としては、実は、この考えに異を唱える人が少なくありま
せんでした。
 ユダヤ教においては、すべての民は一人の祖先アダムから出ていると考えて
います。バベルの塔の事件で世界の民は別れ別れになってしまいましたが(創
世記11章)、やがて、終わりの日には、すべての民が一つとされることが信じら
れてきました。しかし、現実の民族は、しばしば神に逆らい、イスラエルを脅
かしました。それゆえ、神の裁きの対象となると考えられます。用いられると
したら、イスラエルに対する神の怒りの道具としてだけです(ホセア8:10など)。
特に捕囚期以後は、異邦人―民族(「エスネー」)という語に定冠詞をつけると、
差別的な意味をもった語に変わります。それゆえ、「異邦人」と訳します。
―その「異邦人」として、救いの対象外、蚊帳の外とされてきました。それが
どうして「どんな国の人でも(すべての民族の人について)、神を畏れて正しい
ことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言えるのでしょうか。
 そこで、ここからペトロ(ルカ)の感話は、ユダヤ教を超えることとなりまし
た。イエスは「すべての人の主」である、という信仰告白をもって、です。し
かし、イエスが「すべての人の主」である、とはどういう意味なのでしょうか。
そして、その信仰告白がすべての民族の人の救いにつながるのでしょうか。
 私たちは「主イエス」という言い方をごく自然に使いますが、この言い方は、
福音書では、マルコによる福音書16:19とルカによる福音書24:3の二か所にし
か出てこない呼び方、大変に畏れ多い呼び方なのであります。そもそもギリシ
ア語で「キュリオス」とは、所有者、主人、君主、先生、旦那などを意味する
言葉でした。ごく普通の語です。しかし、LXXにおいて、ヘブライ語の、神を
表す「神聖四文字」―日本語聖書では「主なる神」と訳します―のギリシア語
の訳語として用いられるようになって、即「主なる神」の意味の語として用い
られるようになったのです。イエスに出会った弟子たちは、特によみがえりの
イエスに出会った弟子たちは、信仰告白として、イエスのことを「主イエス」、
すなわち「イエスは主なる神と同じ方である」という意味で、そのようにお呼
びしたのです。すなわち、特にこのようにお呼びするとき、イエスは「この世
を支配される」という意味合いが強く意味されています。その主イエスの権能
をより明確にいう言い方として、大変に珍しい、少ない言い方ではありますが、
イエスは「すべての人の主」であるという信仰告白がなされたのです。イエス
は全ての者の審判者であるからして、すべての民族の人を正しく判断されるの
です。
 以下、43節まで、イエスが「すべての人の主」であられる理由が、短いイエ
ス伝として記されています。イエスご自身はほとんど異邦人伝道をされません
でした。しかし「神が」イエスを遣わし、とりわけ「復活」させたことに、そ
して、ペトロをはじめとする弟子たちに御自分が生きている者と死んだ者との
審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証する
ようにと世界宣教命令を出されたことが、イエスが「すべての人の主」である
しるしなのです。
 しかし、復活のイエスに直接には出会っていないコルネリウスらです。イエ
スを「すべての人の主」として受け容れることができるのでしょうか。

44~48節「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いて
いる一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た
人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦
人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたからである。そこでペトロ
は、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受け
るのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。そして、イエス・
キリストの名によってバプテスマを受けるようにと、その人たちに命じた。そ
れから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」

 ペトロの感話の結論は、「主イエスをすべての民族の主として信じなさい」
でした。そしてコルネリウスらは信じたことでしょう。が、復活のイエスに出
会っていない彼らにとって、その「信仰」の内実は、実はあやふやです。しか
し、そこに聖霊の助けと、洗礼とがある、ということです。異邦人伝道におい
ては、洗礼において、そして聖霊の助けによって、復活信仰が確かなものとさ
れていく、ということです。
 結局、異邦人伝道は、すべての人(民族)の主であるイエスをさし示すことに
つきます。ここから、新たな出発がなされることとなりました。

(この項、完)



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