2015年07月26日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第27回「使徒言行録10章34〜48節」
(13/4/7)(その1)
34節「そこで、ペトロは口を開きこう言った。」
久しぶりの使徒言行録連続講解説教です。まず、前回3月17日の説教を、少し
長くなりますが、振り返ってみることといたしましょう。
10:1より、エルサレム教会のリーダーの一人であるペトロと、ローマの百人
隊長であるコルネリウスの出会いの物語が始まります。
コルネリウスという人は、ローマの百人隊長ですから、典型的な異邦人です。
しかし、パウロがローマの信徒への手紙1:24~32で描いているような意味での、
すなわち神を畏れず放縦の限りを尽くすという意味での異邦人ではありません
でした。「エウセベース(敬神家)」と言われる、ユダヤ教の神を畏れ、ユダヤ
教の教えを守り、割礼こそ受けなかったものの、ユダヤ教的生活をしていた、
真面目な人でした。この物語は、エルサレム教会の指導者たるペトロと、異邦
人との出会いの物語であるはずなのですが、ここで登場する異邦人は、ほとん
どユダヤ教徒と言ってもいいような人です。異邦人伝道については全くの初心
者であるペトロにふさわしい人物が用意された、ということでしょうか。
このコルネリウスに天使のお告げがあり、コルネリウスは、カイサリアから
50キロ離れたヤッファへペトロを迎えに人をやることとなりました。
ペトロの方はペトロの方で、「エクスタシー」体験をすることとなりました。
どのような幻を見たか、と言うと、
「天から白い布、たぶん船の帆のようなものではないか、と言われています、
が下りてきて、その中に動物、地を這うもの、空の鳥が入っていて、『ペトロ
よ、屠って食べなさい』という指示がある」というものでした。これも「エク
スタシー」の中での出来事であろう、と思われますが、「ペトロが「主よ、と
んでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」
と言うと、神の声で「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言っては
ならない」との神の声があった」というものでした。
この「エクスタシー」体験がペトロを異邦人に対する偏見から自由にしまし
た。翻訳上の問題があって、ペトロが「エクスタシー」体験の中で見た動物は、
清くない物と汚れた物ではなくて、清くない物と「普通のもの」のごちゃまぜ
だったのですが(ゆえに、ペトロの答えは「主よ、とんでもないことです。清
くない物と、「普通のもの」を一緒くたに食べることはできません」だったの
ですが)、この「エクスタシー」体験によってペトロは、異邦人に対するユダ
ヤ人の偏見の原因である食物規定から自由にされ、コルネリウスの家へ自由に
訪問することができるようになったのです。
さて、今日のところはその続きで、ペトロがコルネリウスの家で、コルネリ
ウスをはじめとする大勢の異邦人(27節)に語った、説教ないしは感話の紹介か
ら始まります。見てみましょう。
34〜43節「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国
の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神
がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です―平和を告げ
知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存
じでしょう。ヨハネがバプテスマを宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユ
ダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖
霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り
歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのです
が、それは、神がご一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の
住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを
木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々
の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前
もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒
に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている
者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝
え、力強く証するようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も
皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが
受けられる、と証しています。」
先ほども述べたように、コルネリウスは、神をも畏れない、ただの異邦人で
はありません。すでに、ユダヤ教に帰依したにも等しい人物です。そこで、ペ
トロは、感話をユダヤ教から始めます。一般には、旧約聖書の神は、イスラエ
ルに対して贔屓するがごとく、依怙贔屓する(分け隔てする)神と見られていま
す。しかし、ペトロ(ルカ)は、申命記10:17を根拠に、神は偏りない方である、
と言います。そして、今や、自分が「エクスタシー」体験で体験したように、
その神の偏りなさが民族についてもそうである、というところから話を始めま
す。それゆえ、「どんな国の人でも(原語は「すべての民族の人について」)、
神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言うのです。
コルネリウスには、すんなり腑に落ちる話ではないでしょうか。
(この項、続く)
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