2015年07月19日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第26回「使徒言行録10章1〜33節」
(13/3/17)(その3)
(承前)
さて、その「エクスタシー」の内容ですが、天から白い布、たぶん船の帆の
ようなものではないか、と言われています、が下りてきて、その中に動物、地
を這うもの、空の鳥が入っていて、「ペトロよ、屠って食べなさい」という指
示がある、というものでした。これも「エクスタシー」の中での出来事であろ
う、と思われますが、ペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物、
汚れた物は何一つ食べたことがありません」と言うと、神の声で「神が清めた
ものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」との神の声があった、
というものでした。
この「エクスタシー」体験が、ペトロを異邦人への偏見から自由にして、物
語の次の展開へと進めるきっかけとなった、というのですが、なぜペトロがこ
の体験によって異邦人への偏見から自由になったのか、もう一つ定かではあり
ません。
最大の問題は、ペトロは律法の専門家ではなく、しかもイエスの生前からの
弟子として、そもそも食物規定にはそんなに縛られていなかったはずだ、とい
う点です(マルコ7:19)。だとすると、この「エクスタシー」はなにを意味し、
そしてそこからペトロは何を受け取ったのでしょうか。
それは、翻訳上の問題を解決することによって解決します。ここで「汚れた
もの」と訳されている、「コイノス」という語、この語には「汚れた」という意
味だけでなく、「普通の」という意味があり、ここでは「普通の」の意味で用
いられている、と考えられるのです。すると、どういうことになるでしょうか。
神が用意された食物、そこには動物、地を這うもの、空の鳥が含まれていま
した。レビ記の11章によれば、すなわちユダヤ教の食物規定によれば、地を這
うものは一律汚れているとされ、食べられません。しかし、動物、そして空の
鳥については、食べられるものとそうでないものとがあるのです。つまり、こ
こに含まれていたものは、一律汚れて食べられないものだったのではなく、食
べられるもの、「普通の」食べものと食べられないものの「一緒くた」だった
のです。
ゆえに、律法の専門家ではないペトロにとって、そこの区別は出来ませんか
ら、ここも翻訳上の問題ですが、ペトロの返事は、それらを「何一つ食べない」
ではなく、「一緒くたに食べる」ことは出来ない、だったのです。
ところが神のメッセージは、「一緒くた」に食べなさい」、「食べ物はすべ
て神によって、すなわちイエスによって清められているから、だからすべて食
べなさい」だったのです。
そこで、この「エクスタシー」によるメッセージの意味です。異邦人差別、
異邦人差別と言いますが、なぜユダヤ人は異邦人を差別したのでしょうか。そ
れは、何にもまして、異邦人が汚れたされるものを食べるから、それゆえ「交
際してはならない」、「訪問してはならない」だったのです。が、今や、汚れた
食べ物はありません。食物はすべて清められている、このメッセージが、何と
ペトロを、異邦人への偏見から 自由にしたばかりでなく、異邦人伝道への理
解と一歩を踏み出させる力となったのです。
ペトロは、コルネリウスの遣いの者を受け入れたばかりでなく、自らコルネ
リウスのところへ赴きました。
23節b〜33節「翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟
も何人か一緒に行った。次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウス
は親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。ペトロが来ると、コルネリウス
は迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」そして、話しながら家に入っ
てみると、大勢の人が集まっていたので、彼らに言った。「あなたがたもご存
知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、
律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者
とか、汚れている者と言ってはならないと、お示しになられました。それで、
お招きを受けたとき、すぐに来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくだ
さったのですか。」すると、コルネリウスが言った。「四日前の今頃のことで
す。わたしが家で午後3時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの
前に立って、言うのです。「コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あ
なたの施しは神の前で覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれる
シモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっ
ている。」それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくお出でくだ
さいました。今、わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず
聞こうとして、神の前にいるのです。」
ペトロは、神の啓示から受け取ったとおり、何の障りもなく異邦人と付き合
います。もちろん、自分を隠すこと(9:34)も忘れません。こうして、教会、エ
ルサレム教会が異邦人伝道とつながったのです。ただ、中味はこれからです。
主のみ業は、一歩、一歩、踏み固めつつ前進してまいります。
(この項、完)
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