2015年06月21日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第25回「使徒言行録9章32〜43節」
(13/3/10)(その1)

 使徒言行録のメインテーマである異邦人伝道。しかし、本格的な異邦人伝道
は、13章から始まります。すなわち、アンティオケ教会によって派遣されたバ
ルナバとサウロによるキプロス伝道です。
 今、そのための準備の時を過ごしています。
 まず最初に、フィリポがサマリアで伝道しました。しかし、エルサレム教会
から派遣されたペトロとヨハネとが余計なことをして、失敗でした。そのフィ
リポがエチオピアの高官への伝道においては成功しました。この二つの出来事
から、教会は、異邦人伝道を担う者には、使徒としての権限を付与することが
必須であることを学びました。
 そして次に、異邦人伝道の担い手として、サウロ、のちのパウロが起こされ
ます。なぜ異邦人にメッセージが語られるのか、それを明確に語れる人が必要
です。それにもっともふさわしい人として、神は、熱心なユダヤ教徒パウロの
回心を用意されました。が、回心後のパウロは意外にも、異邦人にではなく、
ユダヤ人にメッセージを語ります。異邦人伝道といえども、それは、イスラエ
ルに示された神の救済のご計画の一段階であることを、パウロはしっかりと踏
まえ、実際の異邦人伝道に備えたのです。
 そして、第三に、ペトロです。イエスに直接に出会い、復活の主に出会った、
ペトロを始めとする使徒たちは、イエスを異邦人に真っ先に紹介しなければな
らないし、出来る立場にある者たちです。ところが、彼らも、ユダヤ人として、
異邦人に対する偏見から自由になることが出来ません。が、ペトロが、その偏
見から自由にされる第一号となります。ペトロが、その自由を獲得する出来事
は10章に記されていますが、その前に、イエスを異邦人にどうやって伝えるか、
その方法をペトロが習得する出来事が二つ記されています。本日は、その二つ
の出来事を学んでまいりましょう。
 その第一は9:32〜35です。

32〜35節「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところ
へも下って行った。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネア
という人に会った。ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくだ
さる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上
がった。リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」

 ペトロの巡回、伝道旅行のようでもありますが、エルサレム教会の代表とし
ての視察、いやもっとはっきり言えば、点検であった可能性があります。点検
と言えば、8章での出来事が思い起こされます。サマリアの町でフィリポによ
る伝道が成功しました。多くの者がイエスの名によって洗礼を受けました。と
ころが、エルサレムにいた使徒たちは(教会は)、ペトロとヨハネをそこへ派遣
します。二人は、伝道の成果を喜びをもって共有するか、と思いきや、「イエ
スの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていな
い」と評価し、按手によって聖霊を授けるといった、聖書の他のどこにもない
儀式を執り行ってしまいます。このため、シモンという元魔術師は、明らかに
道を踏み外してしまいました。大変にまずい点検でした。
 リダというところは、エルサレムの北西40キロのところにある町で、当時は、
ユダヤの領域内でした。そこに「聖なる者」たちが住んでいました。「聖なる
者」とは、ローマの信徒への手紙では「エルサレム教会の信徒」のことですが
(15:26)、使徒言行録の用例(9:13、32、41、26:10)からすると、エルサレム教
会に限らず、「クリスチャン、イエスを信ずる者」のことと考えられます。
フィリポが伝道したと考える人もいますが(8:40)、だれが伝道したか分かりま
せん。しかし、そこに、「教会」という形を取るまでには至らなかったとして
も、イエスを信ずる者の群れがありました。ペトロはそこへ点検に行きました。
8章のような事態にならなければよいのですが…
 ここで、出会いがありました。点検だとすれば、明らかに、クリスチャンの
一人です。新共同訳はあいまいですが、アイネアという「男性」です。8年前
から、「8歳のときから」と訳すことも出来ますが、いずれにしても「長い間」、
中風に悩んでいる人でした。中風の人の癒しの物語は、マルコ2章にも出て来
ます。この病気は「若年性骨髄炎」か「脊椎カリエス」ではないか、と想像さ
れています。すぐに命にかかわる病気ではありませんが、動けません。その患
者を見たとき、ペトロにひらめくものがあった、と考えられます。「出会う」
と訳されている語、「見出す」「わかる」「悟る」といった意味を持つ語です。
ペトロは自分がなすべき業が示されて、「アイネア、イエス・キリストが癒し
てくださる。起きなさい」と言ったのです。8章と豪い違いです。前回は、す
でにイエスの名によって洗礼を受けた者に対して、自分の権威によって? 
「聖霊」を授ける按手をしました。今回は、自分は引っ込み、消え、イエス・
キリストの癒しを信じることを薦めたのです。ここにみ業がなされ、つまずき
ではなく、悔い改めが起こりました。

(この項、続く)



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