2015年05月31日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第23回「使徒言行録9章1〜19節a」
(13/2/24)(その3)
(承前)

 旧約以来(出エジプト記3:14)、「私は…ある」は、神の自己表現なのです。
そして、「私はイエスである」ですから、あの律法軽視のキリスト教徒の親玉
であるイエスが、実は、神である、ということがここで示されたのです。
 そもそも神に対して忠実な生き方を志向していたパウロですから、この啓示
に接し、すぐにそれを受け止めました。この時点で「イエスを信じた」と言っ
て差し支えありません。目が見えず、食べも飲みもしなかった三日間は、「迷
いの三日間」ではなく、キリストに倣って、古い自分に死に、新しい自分によ
みがえる、キリストの十字架死から復活までの三日間を象徴するものであった、
と考えられます。
 一方、同じく啓示に出会った他の人々は、パウロと違って、何も受け止めら
れませんでしたので、何の反応もなかった、ということです。啓示を受け止め
られるかどうかは、被啓示者の問題だ、ということです。
 ところで、この回心物語には後半があり、むしろそちらの方が重要と言えま
す。

10〜19節「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、
『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言っ
た。すると、主は言われた。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、
ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っ
ている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見
えるようにしてくれるのを、幻でみたのだ。』しかし、アナニアは答えた。
『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してど
んな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める
人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。』すると、主
は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわ
たしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどん
なに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』そこで、アナニア
は出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サ
ウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元ど
おり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣
わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、
サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こしてバプテスマを受
け、食事をして元気を取り戻した。」

 人生がすっかり変わる体験をしたとは言え、彼(パウロ)には、物思いにふ
けっている余裕はありませんでした。彼の回心は、そのまま彼の異邦人伝道へ
の使命と直結していたのです。
 しかし、彼の異邦人伝道への使命は、回心の場合のように、彼に直接啓示さ
れるのではなく、アナニアという人物を通して啓示されました。このことには、
どのような意味があるのでしょうか。
 アナニアという人物ですが、5章で出てきた、献金をごまかしたアナニアと
は違います。22:12で、「律法に従って生活する信仰深い人」と、もう一度紹
介されていますので、真面目な信徒だったと考えられます。しかし、この紹
介にも明らかにされているごとく、律法に忠実、つまり、異邦人伝道には理
解の足りない人物が想定されます。ルカは、エルサレム教会の信徒代表とし
て彼を登場させたのではないでしょうか。
 パウロの場合と同じように、彼に神の啓示があり、彼もそれを受け止めま
した。しかし、アナニアには「しかし」がありました。この「しかし」には、
アナニアの、パウロという人物への懸念だけでなく、エルサレム教会の異邦人
伝道への消極性、主が異邦人伝道にそこまで力を注がれることが想定外であっ
たことを示しています。主の思いについて行っていないのです。しかし、アナ
ニアは結局は分からなかったかもしれませんが、主の啓示に従い、パウロの目
を癒し、洗礼を授けました。こうして、教会も異邦人伝道に一歩を踏み出すこ
ととなったのです。異邦人伝道は、神の指示によって、教会の一致した働きと
してなされねばならないのです。これが第一です。
 一方、パウロに与えられた異邦人伝道の使命は、生易しいものではありませ
んでした。15節、「わたしの名を伝えるために」とさりげなく訳されています
が、この「伝える」と訳されている語、「バスタゾー」という語です。普通は、
物や人を運ぶ時にしか使わない語です(3:2)。ここでは、「救いのメッセージ
を運ぶ」という意味で用いられているのでしょうが、その仕事がいかに重荷で
あるかが示唆されています。また、「器」という語は、神の憐れみ深い選びを
表していますが、パウロはのちに、その使命のあまりのつらさに、自分自身の
ことを「土の器」と呼ばざるを得ませんでした(Uコリ4)。しかし、それにも
かかわらず、結局はパウロがその使命を果たしえたのは、その出発点において、
教会の一致した祈りに支えられた、ということを今日は指摘しておきたい、と
思います。

(この項、完)



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