2015年05月17日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第22回「使徒言行録8章26〜40節」
(13/2/17)(その3)
(承前)

 それだけでも、神の救いから遠そうな感じがしますが、問題は、彼が宦官で
あった、ということです。このような人は、ユダヤ教では、申命記23:2「睾丸
のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」
との規定により、割礼を受けて改宗することからも除外されていました。わず
かに、イザヤ書56:4〜5により、終末の救いの希望を与えられるのみでした。
すなわち、イザヤ書56:4〜5に曰く「(終わりの日に)宦官が、わたしの安息日
を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたし
は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、
わたしの家、わたしの城壁に刻む。」とあるとおりです。要するに、彼は、そ
もそも異邦人であることに加え、宦官としてユダヤ教の異邦人伝道の対象から
も除外されるような人物であった、ということです。
 しかし、神は、ユダヤ教時代には救いから除外されてしまった、このような
人をも、実は、御心のうちに止めていらっしゃいます。そして、このような立
場に置かれた人にも、実際に救いの手が差し伸べられる時代が来ました。それ
こそ、教会の時代、異邦人伝道の時代であったわけです。
 異邦人だからと言って、すべての人が、神を全く畏れないわけではありませ
ん。彼は、排除されているにもかかわらず、エルサレムの神殿に、わざわざ国
境を越えて、礼拝を守りにやって来て、しかも、帰りの道すがらも、ひたすら
聖書を読んでいました。この時代、「読む」とは音読することを意味しました。
ゆえに、何が読まれているか、周りの人にもわかりました。霊の導きによって、
フィリポはこの人と出会い、そして、イザヤ書53章の解き明かしを通して、イ
エスが主であることを証ししました。「イエスについて福音を告げ知らせた
(35節)」とありますから、イエスによる救いの成就において、異邦人に、そし
て捨てられた人々にも、信じる者すべてに救いがもたらされる時が来たことを
告げ知らせた、と推測されます。宦官は、この福音を信じたのではないでしょ
うか。欠けている37節は、後の加筆と考えられるため、新共同訳では、使徒言
行録の末尾(272ページ)に添えられています。が、宦官が、この言い方(イエス
は「神の子」)ではなかったかも知れませんが、イエスを主とあがめ、信仰を
告白したことは確かです。そして、おそらく、冬の季節、たまたま水が流れる
ワジに出会ったことと思われます。授洗(浸礼)が行われました。異邦人にして、
救いからもれているとされた人に救いがもたらされました。画期的な出来事で
した。聖霊が降ったことは、もちろんのことです。
 しかし、そればかりでなく、聖霊はフィリポをも連れ去り、フィリポは新し
い任地に遣わされました。受洗者には自立が求められます。宦官は「喜びにあ
ふれて旅を続ける(39節)」ことによって、それを実行しました。こうしてこの
異邦人伝道は、実りをももたらしたのです。後にこの地域、スーダンに、この
宦官の直接の働きによる、とは言えませんが、教会が設立されたことは確かで
す。
 この出来事は、何を意味するでしょうか。クリスチャンが一人増えてキリス
ト教が広まった、ということでしょうか。それも大きな大きな出来事には変わ
りありません。が、そこに止まるものではありません。異邦人に、それも終末
のときになって初めて救いがもたらされる、とされていたエチオピアの人に救
いがもたらされる、さらには、もうお分かりのとおり、旧約聖書、ユダヤ教に
おいて、救いから全く除外されていた人にも、救いがもたらされるそういう時
代の到来、喜ばしき時代の到来を告げる出来事であったのです。
 わたしたちは、この救いの時代に生かされています。この救いを私たち自身
も受け止め、さらに、フィリポのように、宣べ伝える者として用いられること
を求めてまいりましょう。

(この項、完)


第23回「使徒言行録9章1〜19節a」
(13/2/24)(その1)

1〜2節「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、
大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この
道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行する
ためであった。」

 さて、本日はいよいよあの有名な、サウロ(パウロ)の回心物語に入ってまい
ります。多くの註解書が指摘するごとく、この物語は、ペンテコステの物語
(2:1以下)、使徒会議(15:1以下)、アレオパゴスの場面(17:16以下)と並んで、
使徒言行録の四大名場面の一つです。しかしながら、ルカの歴史観によれば、
これらの出来事は、神の救済の歴史を画する、つまり新しい時代のはじまりの
出来事ではないのです。そのことを、私たちは最初にきちんと認識しておく必
要があります。

(この項、続く)



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