2015年05月03日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第21回「使徒言行録8章14〜25節」
(13/2/10)(その3)
 (承前)

 決してシモンだけではないでしょう。ペトロ、ヨハネによる「聖霊授与」な
どという怪しい「儀式」を施されたクリスチャン皆が、「自分もやってみたい」
と思ったのではないでしょうか。元魔術師のシモンの場合はびんびんです。金
(カネ)をいくら払ってでも、その能力を身につけたい、と思うのが当然なので
はないでしょうか。ペトロの、シモンに対する罵倒は熾烈を極めます。「腹黒
い者」と訳されている部分、そのまま訳せば「苦い苦よもぎ」で、申命記29:17
から来ており、神に背く者のたとえです。同じく、「悪の縄目に縛られて」は、
「悪の連帯」であって、イザヤ書58:6(本日の旧約書)から来ています。さらに、
これはご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、後にキリスト教世界では、
シモンは、「聖なるものをカネで買おうとする悪い人」の典型とされ、英語の
「シモニー」という言葉は「聖職売買」を意味する言葉とまでなりました。も
ちろん、シモンも悪いです。しかし、一神教的伝統のないところで、ペトロと
ヨハネとが怪しげな儀式をするものですから、せっかく洗礼にまで至ったシモ
ンをつまずかせ、このようなとんでもない事態を引き起こしてしまったのです。
悔い改めを必要としているのはシモンだけではありません。ペトロとヨハネ、
いやその二人を正当な理由なくサマリアへ送り出したエルサレム教会こそ、悔
い改めが求められています。
 この物語は、私たちに多くの痛い教訓を残しています。伝道においては、特
に異邦人伝道においては尚更、「イエス・キリストの名以外は語らない」とい
う原則が貫かれるべきです。ペトロとヨハネも、25節にあるような福音伝道に
徹すればよかったのです。二度とシモンのような犠牲者を出さないようにしな
ければなりません。

(この項、完)


第22回「使徒言行録8章26〜40節」
(13/2/17)(その1)

26節「さて、主の天使はフィリポに、『ここを立って南に向かい、エルサレム
からガザへ下る道へ行け』と言った。そこは寂しい道である。」

 前回のところを振り返っておきましょう。大変に保守的なエルサレム教会も、
ヘレニストのユダヤ人がメンバーに加わることによって、少しずつ異邦人伝道、
これこそ使徒言行録が伝えようとしている核心ですが、への道が開かれてまい
ります。ヘレニストユダヤ人信徒のリーダー、ステファノは、殉教の死を遂げ
てしまいましたが、それでも、異邦人伝道の使命を裁判の中で立派に証しまし
た。
 実際に異邦人伝道に最初に乗り出したのは、ヘレニストユダヤ人信徒のナン
バー2、フィリポでした。フィリポは、まず手始めにサマリア伝道に手をつけ
ました。これは大成功を収めました。その成功の秘訣は、フィリポが有能だっ
たからではなく、「しるしや業」を行った(8:6〜7)、すなわち、神の力を得て
それを行ったからです。たくさんの受洗者が出ました。
 ところが、このフィリポのサマリア伝道にエルサレム教会の保守派が言いが
かりをつけ、ペトロとヨハネとを遣わし、「洗礼のしなおし」とも言える暴挙
を行ってしまいます。これは、サマリアの信徒、なり立てほやほやの信徒に混
乱を引き起こし、元魔術師シモンのような「つまずく者」を生み出してしまい
ました。ルカの叙述はていねいですが、混乱の事実があったことは確かに伝え
ています。その後、サマリアに教会が設立された、といったニュースはもちろ
ん、サマリアの信徒のその後の動向に、使徒言行録が一切触れていないのは、
この混乱が、サマリアでの教会形成に決してよい影響を及ぼしはしなかったこ
とを表しています。
 しかし、フィリポはそのような教会内の「いざこざ」にもめげません。新た
な伝道、異邦人伝道へと向かってまいります。なぜ、そのような勇気が与えら
れるか、と言えば、それは、彼が「人の受け」を支えにしているのではなく、
「神の使命」に生きているからです。今お読みした26節の「主の天使」によっ
て次の指示が与えられたとの記述に、逆に言えば、彼の使命感が描写されてい
ます。
 さて、それでは、主の天使はどんな指示を与えたのでしょうか。それは、
「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道へ出なさい」という
指示でした。まず「ここ」がどこか、が問題となります。新共同訳を素直に読
むと、「サマリア」ということになります。が、協会訳では違います。エルサレ
ムです。なぜか、と言えば、協会訳では、少し戻りますが、25節の「ペトロと
ヨハネ」と訳されている部分を「使徒たち」と訳しているからです。原文は
「彼ら」ですので、フィリポが、ペトロやヨハネと共にエルサレムへ戻ったこ
とになっているのです。フィリポがエルサレムに戻ったのか、サマリアに残っ
たのか、原文の二つの解釈が可能なのです。さあ、どっちでしょう。フィリポ
がエルサレムでの迫害を逃れて散らされたヘレニストであったこと、そして、
サマリアでのいざこざを考え合わせると、その後ペトロとヨハネと行動を共に
し、しかもエルサレムまで行った、とは考えにくいのではないでしょうか。新
共同訳が自然です。

(この項、続く)



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