2015年03月15日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第18回「使徒言行録7章17〜43節」
  (13/1/13)(その2)
(承前)

「そのとき主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所
は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見
届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今
あなたをエジプトに遣わそう。』人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官に
したのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通し
て、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」

 内容的に、驚くほど原典に忠実です。大筋、原典のとおりの物語となってい
ます。が、ここでも、ステファノは、ユダヤ教の伝承にも忠実に倣っています。
どこか、と言えば、35節、天使がモーセを指導者、解放者として派遣したこと
になっている点です。捕囚期以後のユダヤ教においては、天使の役割が、神と
等しいものとして高く評価されるようになりました。そして、ここで神はモー
セに天使と等しい栄光を与えられた、というわけです(シラ書45:2)。この、ユ
ダヤ教から受け継いだ「栄光のモーセ」像は、次の第四部(36〜39節)にも、そ
のまま引き継がれています。

36〜39節「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、
不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。このモーセがまた、イス
ラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたし
のような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会に
おいて、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖たちとの間に立っ
て、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」

出エジプト記4章から19章までの要約です。ただし、37節の引用、『神は、あ
なたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てら
れる』は、申命記18:15によるものです。ですが、彼は「奇跡行為者」そして
「律法授与者」として定義されています。これまた、ユダヤ教の伝承に基づく
ものです(シラ書45:3)。ユダヤ教によれば、結局、申命記の引用にあるように、
モーセは、「もっとも偉大な預言者」だったのでした。が、ユダヤ教の「栄光の
モーセ像」をそのまま引き継いだステファノは、ことモーセに関する限り、ユ
ダヤ教と見解を一にしているのではないでしょうか。ならば、ステファノは咎
められることはありません。解放されてしかるべきではないでしょうか。
 そうではありません。ステファノは、第三部で、重大な原典の改変を行って
いました。人を殺めてしまったモーセがミディアン地方に逃れたのは、原典で
は、ファラオがこの事を聞き、モーセを殺そうとしたからでした(出エジプト
記2:15)。ところが、ステファノはこの部分を、イスラエルを救おうと決心し
たモーセを、同胞が理解してくれなかったから、としてしまいました(25,27節)。
モーセは「解放者」です。「解放者」は、当然のこととして、苦難を受けます。そ
の苦難の相手が、イスラエルを奴隷にしているエジプトから、何とイスラエル
自身に摩り替わってしまったのです。よって、荒れ野に出てからのイスラエル
の不従順についても、原典以上に厳しく咎められることとなりました。第五部
(39〜43節)です。

39〜43節「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプト
をなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてく
れる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの
身の上に、何が起こったのかわからないからです。』彼らが若い雄牛の像を
造ったのはその頃で、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったもの
をまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むまま
にしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イス
ラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え
物を献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿
やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たち
をバビロンのかなたへ移住させる。』」

 41節までは、ほぼ出エジプト記32章の物語に基づいています。しかし、荒れ
野の民は、星を拝んでいたわけではありません。本日の旧約書アモス書5章25〜
27節の引用も、アモス当時のイスラエルについてなされたもので、荒れ野の民
のことではありません。にもかかわらず、それはステファノによって一緒くた
にされ、神から遣わされたモーセを苦しめたのはイスラエル、しかも偶像礼拝
に走ったイスラエルとされてしまったのです。対照的に、イスラエルを苦しめ、
神に対して畏れを抱くことすらなかったエジプトの罪はどこかへ吹っ飛んでし
まいました。ステファノの弁論には、「悪いのは異邦人ではない。イスラエル
だ」とのメッセージが、実は隠されていたのです。
 このモーセ論を、彼のアブラハム論、ヨセフ論と併せて読むと、どのような
結論に至るでしょうか。それは、言うまでもなく、「ユダヤ教との訣別」、そ
してその結果として「異邦人教会の設立」ということになるのではないでしょ
うか。ステファノは、パウロより以前に、パウロのような緻密な議論は全くあ
りませんでしたが、救済史の新しい時代を見て取っていたのです。

(この項、続く)



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