2015年03月01日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第17回「使徒言行録7章9〜16節」
  (13/1/6)(その2)

(承前)
 持ち前の才覚をもって、世界的な大飢饉を乗り越えた彼は、やがて父ヤコブ
一族の危機をも救うことなり、一族はエジプトで生活するようになる、という
大変有名な物語です。なお、エジプトに呼び寄せられた一族の数をステファノ
は75人としていますが、創世記の記述(46:27)では、70人となっています。
 で、次にユダヤ教ではヨセフをどのように見てきたか、ということですが、
アブラハムの場合のようにすっきりとは行かず、その見方はゆれてきました。
つまり、ヨセフは、異邦の地エジプトで、しかもファラオに取り立てられて活
躍した人物です。これを、エジプト文化の中でも、神を信じ、イスラエルの掟
を貫き通した、ととるか、あるいは、エジプトの文化に妥協した、と取るか、
によって見解が分かれてくるのです。この両方の見解を二つの著書で、見事に
使い分けているのが、イエスやパウロとほぼ同世代の、ユダヤ教の哲学者アレ
クサンドリアのフィロです。彼は、「ド・ヨセフォ(ヨセフ論)」という評伝の
中で、ヨセフのことを理想的な政治家である、と褒め称えています。ヨセフは、
若い頃からずば抜けた才能を発揮していました。それは、兄弟の嫉妬を買いま
したが、逆にそのことが、将来のエジプトでの統治の準備となりました。更に、
ポティファルの妻事件において、ヨセフが「へブライ人の持つ、特別の慣習と
法」に触れていることに注目しています。ヨセフはエジプトでの長い滞在にも
関わらず、エジプトの慣習に染まらなかったのです。
 が、一方、フィロは、「デ・ソムニイス」という別の著作の中で、ヨセフの
ことを「エジプトの悪徳を採用した」と批判しています。具体的ではありませ
んが…。そして、ヨセフに対する批判的な見解は、フィロ以降のラビの解釈に
おいて顕著になりました。後の時代になると、紀元後400年くらいですが、兄
たちを挑発したのはヨセフである、ポティファルの妻を唆したのもヨセフであ
る、といった見解が見られるようになってくるのです。
 活躍はしたけれど、エジプト文化に染まってしまったように見えるヨセフに
対する警戒心が強くなってきたのでしょうか。
 さて、以上を踏まえた上で、ステファノのヨセフ論ですが、まず第一に、事
件のきっかけを、兄弟のねたみ一本に完全に絞っている点が注目されます。創
世記37章の原典の記述では、明らかにヨセフの側にも非がありました。「兄た
ちのことを父に告げ口した(37:2)」点、「夢を見て(それも兄弟が自分にひれ伏
す夢を)、それを得意げに兄たちに語った(37:6,9)」などです。ステファノは、
これらの点は一切無視、ヨセフはとにかく有能にして、ねたんだ兄たちが悪い、
とされます。
 さらに、エジプトでの生活も、恵みと知恵とに満ちたもので、ポティファル
の妻との危機についてなど、一切触れられません。実は、フィロ以前のユダヤ
教において、ヨセフに対して、大変肯定的にして、好意的な見方がありました。
紀元前3世紀のアルタパヌスです。彼は、ヨセフをヘレニズム世界におけるユ
ダヤ人の成功者になぞらえて描いたのです。彼の場合も、ポティファルの妻事
件には一切触れていません。英雄の伝記にそういった事件はキズになると考え
たからではないでしょうか。ステファノのヨセフ像は限りなく、アルタパヌス
のヨセフ像に近づく事となりました。ヨセフは、ヘレニズム世界の成功者であ
る、これがステファノのヨセフ像の第一の結論です。
 しかし、同時に、ステファノによるヨセフ物語のスタートは、アルタパヌス
のヨセフのように、単なる上昇志向ではありませんでした。ねたみの被害者で
ある、というマイナスからのスタートでした。それゆえ、兄弟たちとの再会は、
単なる成功者の余裕ではなく、和解という意味を持つものとなったのです。な
お、16節にも、創世記の記述との食い違いがあります。創世記では、ヤコブの
埋葬場所は、「マクベラの畑の洞穴」です(創世記50:13)。また、「かつてア
ブラハムがシケムでハモルの子らから買った」との記述も、創世記と異なりま
す。これは、ステファノが意図的に変えたのか。変えたとしたら、どのような
意味があるのか、いろいろな説がありますが、どれももう一つ説得力に欠けま
す。ここは、単なる間違いか、あるいは、創世記以外の物語の混入なのではな
いでしょうか。
 いずれにしても、アブラハム物語において、アブラハムにステファノ教会を
なぞらえたステファノが、今度はヨセフに何をなぞらえているのでしょうか。
それが、今度もステファノ教会です。ステファノ教会は、進んでヘレニズム世
界へ、異邦人世界へ出て行きます。そしてヨセフのように成功します。が、そ
の成功は、ステファノ教会をねたんで、ヘレニズム世界へ追い出したユダヤ人
と、たとえ最終的にではあるとしても和解するためである、ということです。
ここには、ステファノ教会の、神の救済史に基づいた壮大なビジョンが、見て
取れます。のちの教会は、何とこのビジョンを一つ一つ現実のものとしていき
ました。が、和解の対象とされたユダヤ教団は、この「演説」には、怒り心頭
です。ステファノの殉教が、刻一刻と近づいてまいりました。

(この項、完)



(C)2001-2015 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.