2015年01月18日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第14回「使徒言行録6章1〜7節」
(12/12/9)(その2)
(承前)
その提案とは、今までは、食事の世話も使徒たちがしていたのでしょう、そ
れを、「食事の世話係七人を選んで、その人たちに任せる」というものでした。
一同は、この提案に賛成し、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」七人を選び、
そして、その人たちは、使徒による按手を受けました。こうして、使徒たちは、
「祈りと御言葉の奉仕」に専念することが出来るようになったのです。
以上が、事件からその後の対応までの経過です。が、この出来事によって、
教会の何が新しくなったのでしょうか。ルカは、何が第一期と違う、と考えて
いるのでしょうか。まず第一に考えられるのは、教会に「制度」が導入された、
ということです。それまでの教会は、イエス・キリストに直接に任命された十二
使徒、(イスカリオテのユダに替わる一人はあとからくじで補充されましたが)
によって運営されてきました。が、一つの事件をきっかけとして、これからは、
教会の運営に携わる人々を選挙で選び按手によって任命する、教会制度が始
まった、ということです。カルヴァンは、後の長老教会の「執事」制度はこ
こに始まる、と言っていますが、その当否はともかくとして、ここから、カ
トリック教会、東方教会を経由して、各教派の教会制度が発達してまいりま
した。確かに、教会は新しい段階に入った、と言えます。
しかし、ルカの言う第二期を画するものは、制度の発達だけではありませ
んでした。第二期を画する、そして第一期と根本的に異なることは、「異邦
人伝道の始まり」だったのです。とは言え、まだ異邦人伝道そのものは始まっ
ていません。課題が示されるだけです。
さて、ここでは、教会の中の「ヘレニスト」なる人々の存在が指摘されま
した。しかし、「ヘレニスト」とは、どういう人(たち)なのでしょうか。そ
して、「ヘレニスト」と異邦人との関係はどうなっているのでしょうか。
翻訳では「ギリシア語を話すユダヤ人」となっていますが、実は「ヘレニス
ト」が何者であるか、ルカがここで「ヘレニスト」という言葉で何者を特定し
ようとしているのか、断言できないのです。「ヘレニスト」という語を七十人
訳聖書で捜してみましたが、どこにも出てきませんでした。それもそのはず、
この語は、本土のギリシア語にも、さらにはギリシア語で書かれたユダヤ教文
学にも一度も出てこない語、実は、おそらくルカの「造語」なのです。ルカは、
この語をここのほか、使徒言行録9:29、11:20で用いています。ところが、二
箇所で意味が相矛盾するのです。9:29では、(回心したサウロがエルサレムで
宣教する場面ですが、)サウロを殺そうとしたユダヤ人が「ヘレニスト」と呼
ばれています。「ギリシア語を話すユダヤ人」と訳されているとおり、ユダ
ヤ人にして、ディアスポラとして生活してきて、しかも熱烈なユダヤ主義者の
ことと考えられます。ところが、11:20は違います。ここはアンティオキア教
会の宣教に触れているところです。エルサレムでの迫害を逃れて、アンティオ
キアに行った教会の人々は、それまでユダヤ人以外には宣教をしませんでした
(11:19)。が、ここ、アンティオキアで初めて、「ギリシア語を話す人々」に
も語りかけたのです。この「ギリシア語を話す人々」の原語が「ヘレニスト」
です。そしてそれは明らかに「ギリシア人(異邦人)」のことです。さて、6:1
の「ヘレニスト」は、「ギリシア語を話すユダヤ人」なのでしょうか、あるい
は「ギリシア語を話すギリシア人(異邦人)」なのでしょうか。
通説は、「ギリシア語を話すユダヤ人」です。翻訳もそれを採用しています
(新共同訳も協会訳も)。しかし、異邦人説(カドベリーなど)も捨てがたいとこ
ろがあります。なぜなら、たとえ、使用する言語が違っていたとしても、ユダ
ヤ人同士の間で、民族同胞の間で、食料の供給であからさまな差別が生じる、
とは考えにくいからです。さらにまた、七人の一人ニコラオは明らかにギリシ
ア人(異邦人)だからです。しかし、ニコラオは「改宗者」でした。すなわちギ
リシア人(異邦人)にしてユダヤ教に改宗し、割礼を受けた者であった、という
ことです。仮に、「ヘレニスト」の中に、ギリシア人(異邦人)が全部ないし
一部含まれていたとしても、それは、ユダヤ化されたギリシア人(異邦人)だっ
たのではないでしょうか。
こうして、「ヘレニスト」が「ギリシア語を話すユダヤ人」であったとして
も、あるいは「ユダヤ化されたギリシア人」であったとしても、いずれにして
も異邦人信徒そのものでありませんが、「教会内における民族的差別」という
深刻な事態をもって第二期をスタートした教会でした。この教会が、異邦人に
宣教する教会に変わっていくためには何が必要なのでしょうか。その課題の一
つが、事件そのものの中に示されています。それは、制度の整備で済む問題で
はありません。悔い改めです。使徒たちが、あくまでもユダヤ人中心であるユ
ダヤ教を脱却することが求められているのです。しかし、それでも、不十分と
は言え、ギリシア系の信者が按手を受け、福音宣教の第一線に立つことによっ
て、悔い改めの第一歩は踏み出されました。
(この項、続く)
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