2015年01月04日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第13回「使徒言行録5章33〜42節」
  (12/12/2)(その2)
(承前)

 なぜなら、サンヒドリンを二度も召集して、ペトロやヨハネ、そして使徒全
員をなんとしてでも訴追しようとしたサドカイ派(4:1,5:17)と違って、使徒言
行録ではファリサイ派はかなり好意的に描かれているからです。たとえば23章
では、パウロがサンヒドリンの裁判にかけられたとき、ファリサイ派とサドカ
イ派との間に論争が起こり、ファリサイ派がパウロを支持したとされています
(23:9)。また、15:5の記事からは、ファリサイ派から信者(イエスを信じる者)
となった者がいたことがうかがい知れます。
 しかし、かと言って、ルカが、「ファリサイ派はキリスト教に近い」と受け
止めていたかというと決してそうではありません。敵であることには変わりあ
りません。そのファリサイ派が使徒たちの弁論に動いてくれたことが奇跡、ま
さに神の導きだったのです。ファリサイ派が決してイエスに近くはなかったこ
とが、後で明らかにされます。
 さて、このガマリエルが被告である使徒たちの所払いを要求しました。この
要求は受け入れられたのでしょう。そこで、ガマリエルは使徒たちの釈放を主
張するのです。この被告にとっては極めて不利な状況の中でどうやって、「弁
論」を展開していくのでしょうか。
 が、残念ながら、ルカも使徒たちも明らかにその場にはいませんでしたので、
実は、弁論の正確なところはわかりません。伝聞、推測に基づいたルカの作文
です。しかし、実際の弁論の要点はつかんでいることと思われます。
 ルカによるガマリエルの弁論は、「慎重にしなさい」すなわち、「判決を急
ぐな」という警告から始まります。以下、その理由が展開されます。最初に二
つの事例が挙げられます。その二つの事例とは、最近のユダヤ教過激派の蜂起
事件です。一つはテウダのケース。テウダは紀元後44年〜46年に蜂起しました。
自分をモーセの後を継ぐ預言者と主張しましたが、時のローマ総督ファドスに
処刑されてしまいました。また、ガリラヤのユダは、紀元後6年ごろに、ローマ
の手によって住民登録が行われた際、それへの不満を足がかりに、反ローマ暴
動を組織した男です。どちらも、それなりの支持者を集めましたが、二人の死
後、支持者たちは自然にちりぢりばらばらになってしまいました。ガマリエル
は、イエス運動も同じ運命を辿るだろう、すなわち、イエスの弟子たちも間も
なく雲散霧消するだろう、と見ているのです。
 しかし、ガマリエルもユダヤ教の信仰者の一人です。もしも、仮にイエス運
動が神から出たものであったとしたら、使徒たちは、形式的には有罪であるが、
それを処罰した場合、その者が神の呪いを受けることになる、そのことに注意
を促したのです。ゆえに、結論は、イエス運動が、神から出たものであったと
しても、そうではなかったとしても、処罰しないのが得策である、というもの
でした。
 見事な弁論です。そして使徒たちは、敵であるはずのファリサイ派によって
救われる、という第二の奇跡を経験することとなるのです。
 しかし、ルカは同時にファリサイ派の限界を見過ごしてはいません。ファリ
サイ派が、そう言いながら、イエスは神から出たものであるということを認め
ていない点、これが第一です。そしてもうひとつ、弟子たち、使徒たちの信仰
が、ファリサイ派には理解できなかったのです。第二の点については、36節で
「従う」と、そして37節では「つき従う」と訳されている語に鍵があります。
原語はどちらも「ペイソー」です。この語は、ギリシアでは「信頼する」とか、
さらには「信じる」という意味で用いられてきました。新約聖書でも、特に使
徒言行録では、イエスを信じる意味で使われている例があります。(使徒言行
録17:7) しかし、「ペイソー」が示す「信じる」は、信仰とは違うようです。
同じ使徒言行録ですが、27:11では、パウロの乗った船が難船する物語の中で、
「百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した(ぺイ
ソー)」とあり、結局船は難破してしまいました。ペイソーは「信じる」は
「信じる」でも、「自分はそう思う」とか「自分はいいと思う」といった程度
の自己中心的な「信じる」を表わす言葉なのです。ゆえに、その「信じる」は、
時には単なる「思い込み」に終わってしまう場合もあるのです。テウダやガリ
ラヤのユダに従い、付き従った人たちも、彼らをメシアと信じたかもしれませ
んが、それは、ペイソーの「信じる」、思い込みだったのです。
 そして、ガマリエルは、使徒たちのイエスに対する信仰も、ペイソーの「信
じる」つまり「思い込み」であると考えていました。しかし、それは違いまし
た。イエスはご自身を十字架と復活において示され、弟子たち、使徒たちはそ
のイエスを「いいな」と思って「これぞ救い主だ」と思い込んだのではなく、
信仰(ピスティス)していたのです。教会は、神がご自身を示されるということ
によって始まりましたが、同時に、その啓示を信仰をもって受け止める人がい
る、というところにおいて、両者あいまって成り立ったのです。

(この項、続く)




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