2014年12月14日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第11回「使徒言行録5章1〜11節」
  (12/11/18)(その3)
(承前)

 しかし、ヨシュア記のケースの判例に倣って、彼女は、アナニアの妻、すな
わち「家族」である、ということだけで、アナニアと同じ判決、そして刑を受
けることとならねばなりませんでした。アナニアと同じく、ペトロによる罪状
の言い渡し、そして、それに伴う判決、そして、神の手による死刑執行を受け
ることとなってしまったのです。
 この事件を通して、神に逆らう罪が、結局は自分もそして家族についても死
を招く、という楽園追放以来の原則が再確認されることとなりました。私たち
は、この物語から、このことを、当時の人々と共に、恐れをもって受け取る必
要があります。

 当時の教会にも大きな衝撃を与えました。しかしながら、この物語は、教会
に「神の裁きと執行」が任せられた物語ではない、ということに私たちは「大
きな注意」を払う必要があります。イエスの十字架と復活の出来事を経て、
「神の国の教会」としてスタートした教会は、確かに終末の出来事を先取りす
る恵みが与えられました。初代教会においても、「五千人の供食」に倣って、財
産共有による「すべての人の満腹」が与えられました。そして、終末の裁きの先
取りもあったということです。
 この事件の史実は、教会の中に不審死を遂げた人物がいた、ということであっ
たと考える人がいます。その通りだと思います。が、教会では、その死を、財
産共有に協力しなかったから、つまり終末の裁きの先取りと受け止め、つまり
警告として受け止めたということなのです。
 教会が判断し、裁いたわけではありません。ペトロも、若者たちも、たまた
ま起こったその神の裁きの先取りに協力しただけです。神の裁きと恵みに仕え
る、これが教会の正しいあり方です。

(この項、完)


第12回「使徒言行録5章12〜32節」
  (12/11/25)(その1)

12〜15節「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが、民衆の間
で行われた。一同心を一つにしてソロモン回廊に集まっていたが、ほかの者は
だれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛
していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかると
き、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレ
ム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まっ
て来たが、一人残らずいやしてもらった。」

 初代教会の物語が続きます。教会の人々が心を一つにして、持ち物まで共有
にしていたこと、それに伴って、供食の恵みと、同時に裁きをも体験したこと
に、ここ二回の説教で触れてきました。しかし、流れとしては、ペトロとヨハ
ネがサンヒドリンの裁判にかけられ、そしてそこでペトロが何とイエスの名を
挙げて証しをしたこと、この「奇跡」に対して、サンヒドリンは「今後イエス
の名によって話したり、教えたりしないように」と命令して釈放したこと(4:18)
で終わっていました。今日は、その続きです。使徒たちは、今度は使徒全員で
すが、再びサンヒドリンに引き出されることとなりました。
 が、この出来事に入る前に、ルカは、12〜16節で、使徒たちがしるしと不思
議な業を行っていたことに触れています。しるしは、不思議な業もそうですが、
神のみ業を指し示すものですから、どのようなことでも、神のみ業を指し示せ
ば、それはしるしとなります。たとえば、イエスが「飼い葉桶の中に寝かされ
た」ことも、イエスが救い主であるしるしでした。12節からして、使徒たちの
行為がたとえささやかなものであったとしても、神が教会を通してみ業をなそ
うとしておられることのしるしとなったことが推測されます。
 しかし、15節、そして16節のように、ペトロの影が病人の病気をいやした、
といった話になると、どうでしょうか。眉唾物ではないでしょうか。いや、そ
うでなかったとしても、例のルカの「美化」なのではないでしょうか。
 が、ルカが、読者が旧約聖書を知っていることを前提として記述しているこ
とを考え合わせると、ルカは、この記事を通して、読者に旧約の預言者、エリ
ヤ、エリシャを思い起こさせようとしているのではないか、と考えられるので
す。エリヤ、エリシャは北王国の預言者として、神の言葉を伝え、当時バアル
信仰に影響されていたアハブ王らと対峙しました。そしてこの二人は、自分が
神から遣わされた「神の人」であるしるしとして、奇跡、とりわけ奇跡的ない
やしを行ったのです。ペトロの話はヘレニズム的な魔術のにおいもする物語で
はありますが、ここでルカは、ペトロが、エリヤ、エリシャと同じく、神から
遣わされた者としての使命に生きたことを、このような表現で伝えているので
はないでしょうか。ペトロは、ただいやしたのではなく、いやしを通して終末
の主を指し示したのです。

(この項、続く)



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