2014年11月23日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第10回「使徒言行録4章32〜37節」
  (12/10/28)(その2)
(承前)

 そもそも経済発展の理論によれば、人類の歴史は原始共産制の時代から始ま
るとされますが、やがて私有財産制度が始まり、もちろん私有のあり方は時代
によって様々ですが、私有財産制は現代にまで及びます。途中、二十世紀に入っ
てから、財産不平等是正の目的で、共産主義という実験がなされますが、そこ
には新たな問題が生じ、それは明らかに後退を余儀なくされています。現在、
人類は、私有財産制に勝る制度を持っていない、と言っても過言ではありませ
ん。その現実の中で、初代教会において、「共産制」が実際に行われていたと
したら、これは、人類史上画期的な出来事なのではないでしょうか。
 それでは、その「共産制」とはどのようなものだったのでしょうか。32節に
引き続いて、34、35節を読んでみましょう。

34〜35節「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持ってい
る人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金
は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」

 ルカの言っていることが、少なくともある程度は事実を反映している、と仮
定した上での話しですが、信者の中で、「土地や家を持っている人」が皆それ
を売り、その代金を持ち寄って使徒たちの足元に置き、つまり使徒の管理下に
置き、つまり共同金庫があって、それを使徒が、後には係を決めて、必要に応
じて分配していた、ということです。ざっくばらんに言えば、ここに「財産共
同体」のようなものが成立したのです。財産において平等な社会が実現したの
です。この教会における共産制が、マルクスないしマルクス主義の立場に立つ
人に高く評価される所以です。
 しかし、問題点はいくつもあります。最大の問題は、消費財は共有されてい
たとしても、生産財が共有されていない、生産手段でさえ確保されていない、
ということです。共同金庫への安定した収入がなければ、共同金庫の原資はあっ
という間に尽きてしまうでしょう。記されているように、不動産を売却して、
原資に献金する人はいたでしょう。しかし、それができる人が一体何人いたの
か。そして、たとえいたとしても、そのような「臨時収入」は、瞬く間に消え
去っていきます。結果、少ない原資の奪い合いが起きるのは目に見えて明らか
です。実際、分配上の不平、不満が起こり(6:1)、制度上の破綻をきたしたこ
とが窺われるのです。
 新約聖書で、いや聖書全体で、この「教会共産制」に触れられているのは、
ここだけです。パウロは、エルサレム教会への献金に、いのちをかけて取り組
みましたが、エルサレム教会において「共産制」が執行されているということ
にふれた、あるいは匂わせる記述は一切ありません。ということは、この制度
は仮にあったとしても、あっという間に消え去ってしまって、パウロをはじめ
後の新約聖書の文書の著者たちの時代には、なかった、知りさえしなかったと
いうことになるのではないでしょうか。
 だとすると、その、あったかなかったかさえも疑われる「教会共産制」を、
ルカが、なぜこのように大々的に報じているのか、という問題が生じてきます。
次にこの問題に触れてまいりましょう。
 が、その問題に直接触れる前に、33節の問題に触れないわけにはいきません。

33節「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々か
ら非常に好意を持たれていた。」

 この節は、前後の文脈の中でどのような意味を持っているのでしょうか。素
直に読めば、教会の財産を共有する生活が、周囲の人々の好感を得ていた、と
いう意味にうけとれるのではないでしょうか。しかし、そうでしょうか。
 以前のことですが、今教会が建っているこの場所にあった貸家にて、ある宗
教団体の方が、若い男女数名の共同生活を始められたことがありました。周囲
の人々は、決して好意を持って受け止めはしませんでした。時代と状況が違い
ますから、単純に同一視してはいけませんが、財布が一つらしき「共同生活」
は、周囲に警戒心は引き起こしても、好感を持たれる類のものではないのでは
ないか、と私は思うのですが、いかがでしょうか。
 実は、この節は原文の全く異なった翻訳が可能です。すなわち「使徒たちは、
大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、神の恵みを受けていた」で
す。協会訳聖書はこちらの訳を採用しています。なぜこのような異なった翻訳
が可能なのか、少しく説明いたしましょう。
 ここに使われている原語は「カリス」という語です。カリスは普通「恵み」
と訳されますので、この語をご存知の方も多いことでしょう。が、この語はそ
もそもは「喜ばれること」という意味でした。そして、旧約聖書(LXX)では、
「神に喜ばれる」場合と、「人に喜ばれる」場合と、二つのケースについて、
この同じ語が用いられてきたのです。もう、おわかりでしょう。LXXに精通
したルカは、この語「カリス」の用法を熟知した上で、両方の意味を巧みに使
い分けているのです。

(この項、続く)



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