2014年11月16日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第9回「使徒言行録4章23〜31節」
  (12/10/21)(その3)
(承前)

 さて引用の文ですが、翻訳では、詩編2編1〜2節と使徒言行録4:25〜26では
言い回しがずいぶんと違っています。が、原文を見てみますと、七十人訳聖書
の詩編2編1〜2節と、使徒言行録4:25〜26のその引用とは、一言一句全く異な
ることなく、「完全に一致」しているのです。これは、驚くべきことです。
七十人訳聖書に精通していたルカにして初めてなしえた「離れ業」なのではな
いでしょうか。
 そして、ルカは、「ここは、ダビデが、聖霊に導かれて、将来のこと、イエ
スのことを予言したものである」という前提に立って、(―この前提は、当時
の教会のメンバーも共有していたかもしれません(4:11の詩編118編の引用に見
られるごとく)―)27節の解釈を展開していくのです。すなわち、「地上の王」
「指導者」は、ヘロデとポンテオ・ビラトであり、「異邦人」「諸国の民」は、
文字通りの異邦人とイスラエルだ、というわけです。これらの人々は、「聖な
る僕」に逆らい、ローマ皇帝に替わって「王」となるべきイエスに逆らったの
です。
 以上、ここでは、イエスの出来事に対する、明らかにルカの解釈が、ルカの
博学に基づいて述べられており、この祈りはほとんど100パーセントルカの作
文である、と結論づけることができるのです。
 さて、詩編2編4〜6節は、その神に逆らう者への神の怒りと、それでもの
「即位式」へと続きます。イエスの場合、即位式はまだとしても、イエスが王
としてしるしをなさることへの求めと、王の部下たる使徒たちが強められるこ
とが求められて、この祈りが締めくくられることとなります。

29〜31節「『…主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い
切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を
伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が
行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が
揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」

 ルカにとってですが、イエスは、神から遣わされた「聖なる僕」に止まるも
のではありませんでした。終末の主です(使徒言行録2:20参照)。しかも、その
終末の主は、ローマ皇帝に替わって地上の王として君臨されるべきお方である
ことが、今や明らかとなりました(詩編2編の引用によって)。よって、その時
はまだ来ないとしても、「聖なる僕」としてのしるしである奇跡は、病気の癒
しという具体的な成果を伴って、また、不思議な業はより不思議な業として、
力強く示されるはずなのです。この祈りは、地上の王としてイエスが君臨され
ることを求める祈りだったのです。
 教会の、いやルカのこの祈りは聞かれたのでしょうか。聞かれたしるしとし
て、再び聖霊降臨の時と同じしるしが示された、というところで、本日の物語
りは終了しています。
 さて、実はその後の歴史において、ルカの祈りどおり、ローマは帝国の首都
から、カトリック教会の総本山へと変わるという大どんでん返しが起こりまし
た。しかし、これによって神の支配が実現したのでしょうか。そうではありま
せん。真の神の支配がなされるためには、そのような政治的なことだけでなく、
キリストの福音が真にすべての人の救いとなることがまず必要です。使徒言行
録の残された課題と言えるでしょう。

(この項、完)


第10回「使徒言行録4章32〜37節」
  (12/10/28)(その1)

32節「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のも
のだと言う者はなく、すべてを共有していた。」

 過ぐる週、先週は、教会の祈りを取り上げました。その祈りは、「聖なる僕
イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように
してください(30節)」という祈りでした。この祈りには、「終末の主」の待望
と共に、「この世の王としてイエスが支配したもうこと」が待望されています。
この祈りは、300年後に、ローマが「皇帝の都」から「教皇の都」となること
によって、実現することとなりました。が、この時点では、使徒たちには思い
もよらないことです。祈りの課題以上のことではありません。しかし、使徒た
ちを中心とする教会の歩みは、キリスト教国の出現に備えることを超えて、終
末の「神の国」の到来に備えるところまで進んでいたのです。もちろん、例に
よって、ルカの美化、理想化、すなわち脚色の手は隅々にまで及んでいます。
実際がどうであったかを見失うことのないよう、読み進めて参りましょう。
 「信じた人々の群れ」とは、教会のことです。教会は、祈りにおいて心を一
つにしていたばかりではありません(4:24)。その日常生活においても、「心も
思いも一つ」であって、その一致は、「財産の共有」にまで及んでいた、とい
うのです。これは大変なことです。

(この項、続く)



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