2014年11月09日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第9回「使徒言行録4章23〜31節」
  (12/10/21)(その2)
(承前)

 神への感謝の祈りでした。ということは、「祭司長たちや長老たちの言った
こと」とは、明言された禁令だけでなく、「残らず」すなわち、ペトロによっ
てなされたしるしが偉大なもので到底否定できないこと(14,16節)についての
「つぶやき」、さらにはペトロの言葉に大いに心動かされたことも含まれるの
ではないでしょうか。それゆえ、この時、教会の人々の心を満たしたのは、
「更なる迫害が起こってきそうで大変だ」という恐怖心ではなく、もちろん厳
しい状況には変わりありませんが、神はしるしを与え、そしてペトロに奇跡を
与えてくださった、そのことに対する、大いなる感謝と喜びであったのではな
いか、と推察されます。
 それでは、祈りの内容はどのようなものだったのでしょうか。

24節「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。
『主よ、あなたは天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方
です。…』」

 まず、創造主なる神に、「呼びかけ」を通じて感謝が献げられました。創造
主への呼びかけは、こことほとんど同じものが詩編146:6にもありますので、
教会でもユダヤ教の伝統に倣ってそのように祈られたのでしょう。しかし、こ
の「呼びかけ」にも明らかにルカの手が加わっています。それは、創造主への
呼びかけに伴う「主よ」という呼びかけです。
 「主よ」という呼びかけは、ギリシア語ではふつう「キュリエ」という言葉
でなされました。日本語聖書で「主」と訳されている語のほとんど全部が
「キュリオス(キュリエの原形)」です。「キュリオス」は、広い意味で「主人」
という意味の語ですが、神と人間との関係を表わすのに適切な語として、人間
から神をお呼びする語として用いられてきたのです。ところがルカはここで神
を呼ぶのに「キュリオス」ではなく、「デスポタ(原形はデスポテース)」を用
いているのです。「デスポテース」も「主人」という意味の語ではあるのです
が、「奴隷の持ち主としての主人」という意味に限定された語です。その意味
で用いられることはたびたびあっても(新約聖書で10回、たとえばTテモテ6:1)、
神ないしイエスへの「呼びかけ」として用いられることはあまりない語です
(新約聖書で神に対して3回、イエスに対して2回)。神に対してこの語が用いら
れている3回の中、2回がルカによるものです。一つはルカ2:29、「シメオンの
祈り」の中で、そしてもう一つがここなのです。
 なぜルカはここで神への呼びかけに「キュリオス」を用いず、わざわざ「デ
スポテース」を用いたのでしょうか。それは、推察するに、神が単に宇宙全体
の支配者であられるに止まらず、この世の社会関係においても支配者であられ
ることをさりげなく強調したかったからではないでしょうか。ローマに対抗し
て、です。ルカは、神がイエスの名によるしるしを通してこの世の真の支配者
であられることをお示しになられている、と受け止めたのだ、と思われます。
 さて、そうだとすると、この世の支配者たちは、イエスを殺すことによって
「とんでもないこと」、神への反逆をなした、ということになります。中段に
進みます。

25-28節「『…あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を
通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。「なぜ、異邦人は騒ぎ
立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上
がり、指導者たちと団結して、主とそのメシアとに逆らう。」事実、この都で
ヘロデとポンテオ・ビラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あな
たが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと
御心によってあらかじめ定められていたことをすべて行ったのです。…』」
 さて、ここでいつものように、この祈りがどの程度その場で祈られた祈りな
のか、あるいは、どの程度ルカの作文なのか、という問題に入っていきましょ
う。もちろん、ペトロとヨハネとが釈放されて帰ってきたとき、教会で感謝の
祈りが献げられたことは確かでしょう。しかし、ここに記された祈りに関して
は内容、形式共に、ほとんどルカの作文である、と言っても過言ではありませ
ん。
 この祈りの中心は、25〜26節の、詩編2編1〜2節の引用にあります。この詩
編2編は、ユダの王の即位式の時に詠まれた詩と考えられています。王位交替
は喜ばしいことですが、こういう時こそ反乱が起きやすいものです。その状況
を謳っています。ユダ王国は、ダビデ王国分裂後の片割れにして、世界史にお
いては、目にも留まらぬ弱小国ですが、神に選ばれた民族の国として、そのユ
ダへの反逆は、すなわち神への反逆になる、ということがこの詩の主旨です。
が、詩編は、新約時代にはすべてダビデの手になる、と考えられていました。
ダビデが将来起こることを預言した、というわけです。そして、ダビデが、ユ
ダ王国で起こることではなく、将来イエスにおいて起こることを預言した、と
いう前提で、この祈りは、この詩編2編を引用しているのです。

(この項、続く)



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