2014年10月26日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第8回「使徒言行録4章1〜22節」
(12/10/14)(その2)
(承前)
5〜12節「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭
司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれ
の名によってああいうことをしたのか』と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊
に満たされて言った。『民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調
べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされ
たかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っ
ていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなた
がたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、
イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、「あなたがた家を建てる
者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。ほかのだれによっても、救い
は得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間
には与えられていないのです。』」
まず、状況についてです。サンヒドリンに集まったのは、議員、長老たち、
律法学者たち、と大祭司の一族でした。サンヒドリンのメンバーとして、長老、
律法学者、祭司長たちはよく聞きますが、議員たち(原語は「アルコンテス」)
は、聞き慣れません。一体誰のことなのでしょうか。が、ヨセフスは、この語
(議員、「アルコンテス」)と、祭司長たち(「アルキレウス」)とを相互入
れ替えで用いています。どうやら、「議員たち」とは「祭司長たち」のことの
ようです。この2つの語を並べてしまったのは、ルカの無知から来るようです。
結局、サンヒドリンの全議員が集まって裁判が始まりました。そして、ペトロ
はその真ん中に立たされて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によっ
てああいうことをしたのか」と尋問されたのです。
ペトロはこの時、どのような心境だったでしょうか。ルカは堂々としていた
かのように書いていますが、どうでしょうか。
相手は、イエスを死罪に追い込んだメンバーです。そして、ここが大事なと
ころですが、彼らは、イエスの裁判結果について反省していませんし、いやむ
しろ、「正しい裁判をした」と思い込んでいる人たちです。
対するペトロはどうでしょうか。負い目の塊です。「イエスについて行く」
と言いながら、ついて行けず、逃げ出したばかりではなく、3度も「イエスを
知らない」と否認しました。復活のイエスと出会って、「イエスに従うことは
正しいことだ」という信仰、確信を得たとはいえ、過去のトラウマがそう簡単
に消え去ることはないのではないでしょうか。
イエスの代わりにサンヒドリンの真ん中に立たされたペトロ、これ以上の悪
い取り合わせはないのではないでしょうか。ペトロは、おそらく、足ががたが
たと震え、股が裂けんばかりに震えていた、と私は想像しているのですが、ど
うでしょうか。
ところが、ここで奇跡が起こりました。あのペトロが、あのイエスの名をサ
ンヒドリンの前で唱え、しかも、最も言ってはいけないこと、「イエスは主で
ある。救い主である」という告白をしたのです。素晴らしいことです。が、使
徒言行録そのものは、ルカの大いなる脚色の産物です。ペトロの言葉も、もは
や「原型を止めないくらい」美しく脚色されている、と考えられます。本当に
言ったのでしょうか。
それが、言ったと考えられるのです。確かに、たどたどしい言葉ではあった
としても、「イエス・キリストの名によって」ですとか、「イエスが救い主で
あられる」ことは確かに言ったのではないか、と思われるのです。しかし、旧
約聖書、詩編118編の引用についてはどうでしょうか。実は、これについても、
ペトロ自身が引用した可能性が高いのです。
11節の詩編118編22節の引用と、旧約聖書、詩編118編22節とを比較して、そ
の違いにお気づきになられた方もいらっしゃることと思います。そう、引用に
は、「あなたがた」が加わっている点です。これは、ルカが、イエス殺害の責
任をサンヒドリンに負わせようとしてなした改変です。これは、ペトロによる
ものではありません。
ところが、翻訳では分からない、特に新共同訳では特に分かりにくい改変が
あるのです。それは、旧約聖書では「退けた」、引用では「棄てられた」と訳
されている部分です。違いは、能動形が受動形に替わっただけのように見える
かも知れません。しかし、そうではありません。旧約聖書(LXX)と引用と
では、そもそも単語が違うのです。旧約聖書(LXX)では、「アポドキマゾー
(捨てる)」という語が用いられていました。が、引用では、「エクスセネオー
(軽蔑する)」になっています。これはほとんど「間違い」と言ってもよいほ
どの改変です。そもそも「家つくりが石を軽蔑する」とは、一体どういうこと
なのでしょうか。意味不明です。新共同訳は、この「間違い」を訂正して訳し
ています。しかし、この「間違い」には、もっと深い意味があるのではないで
しょうか。
(この項、続く)
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