2014年10月05日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第6回「使徒言行録3章1〜10節」
  (12/9/30)(その3)
(承前)

 しかし、今がその終末の時であるとは到底思えないし、自分にその終末の恵
みが及ぶとは思いも及ばなかったことでしょう。それで、当面の生きる手立て
として、施しを要求する日々を過ごしていたのです。施しが徳であるユダヤ社
会のことですから、当面生きていく上での差支えはなかったのではないでしょ
うか。
 この人と出会って、ペトロとヨハネは彼をじっと見ました。彼の何を見よう
としたのでしょうか。この「見る」という語の原語は「アテニゾー」という語
です。新約聖書で14回用いられている中、12回はルカが使っています。そして
LXXには、この語が用いられた用例がありません。それゆえ、私たちはこの
語の意味をルカの用例から確定していかねばなりません。ところが、ルカはこ
の語をいろいろの場面で用いているのです。十字架前のイエスを前にペトロが
ウソを言っているとき、そのペトロを見つめる女中の「見る」も「アテニゾー」
でした(ルカによる福音書22:56)。後に、ステファノを殺そうとして見つめる
ユダヤ人の視線も「アテニゾー」でした(使徒言行録6:15)。こういった、
今日のこの場面には当てはまらない用例の中で、使徒言行録14:9は、唯一こ
の場面に通じる用例です。パウロが癒しをする前に、相手に信仰があるかどう
かを確認する視線が「アテニゾー」だったのです。
 ここでも、ペトロとヨハネは、この男が神の憐れみの対象たるにふさわしい
かどうかを確認するために、じっと見た(「アテニゾー」)のです。それで、
「わたしたちを見なさい」と言いました。この「見る」は別の語(「ブレポー」)
であり、「理解する」の意味です。つまり、今、神の憐れみが「あなたに」降
ることを受け止めなさい、と二人は、この男に要求したのです。
 ところが、この男は理解しません。何かもらえるものと思って「見つめる」。
これは、「エペコー」という語で、「心を向ける」の意です。結局、この男は、
ペトロとヨハネによるテストに合格できませんでした。
 が、ペトロを通して働かれる神は、この人が終末の癒しの期待を、「潜在的
には持っている」ことをお見逃しにはなられません。神の憐れみの対象として、
それを受け止める者としてくださったのです。「ナザレ人イエス・キリスト」
の名によって奇跡が行われ、彼は立ちあがって歩く、という終末の恵みを受け
たのです。
 こうして、神の国の教会を通して神の恵みの時の到来が告げ知らされたので
すが、この告知に対して、3つの反応が示されることとなりました。
 第一は、癒された本人です。「歩けるようになって、はい、さようなら」と
いう反応も可能でした。しかし、潜在的にせよ、彼が持っていた、終末の神へ
の信仰がそうはさせません。躍り上がって神を賛美します。神をともかく信頼
すること、それが、恵みを恵みとして受け止めることが、新たな生に生きる第
一歩となります。
 第二に民衆の反応です。しるしそのものにはびっくりしました。が、教会の
メンバーにはなりません。せっかくこのしるしに出会ったのに、力にはならな
いのです。
 第三に、本日はまだ登場しませんが、ユダヤ教の当局者達です。彼らも、終
末への信仰を、この男以上に強く持っていたはずです。しかし、この終末の恵
みを、ペトロなどが告げたことに、しかもイエスの名によって奇跡がなされた
ことに大いに躓きます。信仰に「ユダヤ教徒としての面子」といった不純物が
入り込んだのではないでしょうか。
 ひたすらに神の恵みを待ち望むとき、その神の恵みを受け取る者とされる希
望を持って、私たちも信仰生活を歩んでまいりましょう。

(この項、完)


第7回「使徒言行録3章11〜26節」
  (12/10/7)(その1)

11節「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆驚いて、
『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。」

 前回は、神の霊は降ったけれども、密やかな歩みを歩んでいた教会が、公に、
明らかとなったきっかけが、一つの癒しの出来事であったことを学びました。
 ペトロを通して、イエスの名による癒しがなされたのです。その素晴らしい
癒しは、同時に、旧約聖書の預言者によって預言されてきた終末の時、神の国
の教会の時の始まりのしるしとなったのです。
 ところで、「しるし」とは、元来は目に見えない神の業が、目に見えるかた
ちで示されることです。ですから、その「しるし」をどのように受け止めるか、
が大切です。「ああ、ビックリした。不思議なこともあるものだ」で終わって
しまう受け止め方もあるでしょう。「これは悪魔の業だ」として、神の働きを
否定し、神に敵対する受け止め方もあるでしょう。しかし、そうではなくて、
「神の業がなされた」と受け止められるとき、「しるし」は、「しるし」とし
ての意味を持つのです。

(この項、続く)



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