2014年09月28日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第6回「使徒言行録3章1〜10節」
  (12/9/30)(その2)
(承前)

2〜3節「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿に入る
人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿のそばに置いてもらってい
たのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこう
た。」

 神殿とはエルサレム神殿のことです。最初の教会のメンバーはおそらく全員
ユダヤ人で、イエス・キリストを信じるようになったからといって、ユダヤ教
徒であることをやめたわけではありませんでした。しかし、そのような状態で
あっても、神の国の教会は確かに命を育んでいたのです。
 その神殿へ、ペトロとヨハネが祈りのために上って行ったとき、一人の人と
出会いました。その人は、「生まれながら足の不自由な人」、障碍者でした。
 ところで、この人のように、何らかの障碍を持つ人は、しばしばそのことが
不幸なことである、と捉えられたため、差別の対象となってきました。日本も
例外ではありません。日本の障碍者史を紐解いてみると、日本における障碍者
差別は、ヒル子神話からすでに始まります。しかし、さらに問題なのは、障碍
を持つがゆえに抱える困難、苦難を救済すべき宗教が、すべてとは言えません
けれども、しばしば救済どころか差別を助長してきた事実がある、ということ
がある、ということです。
 一例をあげてみましょう。調布柴崎伝道所を牧しておられた青木優牧師が、
戦後すぐ「失明」という困難に直面された時、その苦悩をより一層助長したの
が、病院に出入りし、うろうろしていた民間宗教家でした。その人々曰く、
「親が何か悪いことをしたので、この不幸が襲った」とか、「前世の因縁だ」
あるいは、「祀られていない神のたたりだ」、などなどです。日本では、家に
不幸が続いたりすると、「憑き物筋だ」などと噂されて、差別が行われてきた
歴史があるのです。
 が、日本において差別があるのだから、どこにでもあるに違いない、と考え、
 旧約宗教、ユダヤ教にも差別があった、と決めつけるのは、速断に過ぎます。
そもそも、天地創造のとき、神は造られたすべてのものを「よし」とされまし
た(創世記1:4など)。楽園物語において、人は罪を知りますが、その罰は
「不死性を失う」ということであって、障碍を与えるなどということでは全く
ありません。出エジプト記20章以下の「契約の書」においても、障碍者差別は
全く、と言ってよいほどなく、むしろ「弱い立場にある人」の人権が保障され
ています。
 とは言え、障碍者差別につながりかねない記事が全くないわけではありませ
ん。レビ記21:17以下、祭司になることができる有資格者の規定において、目
や足の不自由な者などなど具体例を挙げ、障碍のある者は祭司になれない、と
規定されています。しかし、これらは、あくまでも祭司の務めに関わることと
して適用されたものです。しかも、神は障碍をもおつくりになることができる
方であると同時に、なくすこともお出来になる方でした(出エジプト記4:4)。
それゆえ、本日の旧約書、イザヤ35:5以下にあるごとく、預言者は「終わり
の日」に神が障碍のある一人一人を癒されるであろうこと、を預言したのでし
た。
 イザヤ書35:5〜6「そのとき、見えない人の目が開き、聞えない人の耳が
開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口のきけなかった
人が喜び歌う。」とあるとおりです。
 そして、当面の倫理としては、障碍をもった人は神の憐れみの対象でしたか
ら、もしその人が生活上の困窮の中にあれば、その人に対する施しをなすこと
が勧められました。
 それで、この「生まれつき足の不自由な人」は、当然のこととして、神殿に
入ることを許され、「美しい門」、すなわち「婦人の庭」と「男子の庭」とを
仕切る門の傍らで施しをすることを許されていた、いや、当然のこととして、
その権利があったのです。
 さて、それでは、この男とペトロそしてヨハネとの出会いにおいて、何が起
こったか、です。

4〜10節「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』
と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは
言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの
人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい。』そして、右手を
取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっ
かりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりし
て神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、
神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座っ
て施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚
いた。」

この人は、ユダヤ人の一人として、障碍を持った人に対する聖書(旧約聖書)
のメッセージを十分にわきまえていたことでしょう。終末のとき、神の霊が降
るとき、神が障碍をすべて癒してくださることを期待していたことでしょう。

(この項、続く)


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