2014年09月14日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第5回「使徒言行録2章37〜47節」
  (12/9/23)(その2)
(承前)

 「大いに心を打たれた」と訳されている語は、「刺し貫く」という意味の語
で、原語では「カタニュッソマイ」と言います。新約聖書では、ここでしか用
いられていません。が、LXXでは、「激しい感情」に襲われた状態をシンボ
リカルに表わす語として、しばしば用いられてきました。「激しい感情」とは、
「恐れ(創世記34:7)」、「悔恨(シラ書14:1)」などです。しかし、そ
ればかりではなく、神が人の心をかたくなにされるときも、この語が用いられ
てきました(イザヤ書29:10、申命記29:7)。
 使徒言行録の著者ルカは、LXXでのこの語の用法を知っていました。しか
し、神が人の心をかたくなにする場面でではなく、人を新しい生へと導かれる
場面で、この語を用いました。神に心を刺し貫かれた人々は、心をかたくなに
して使徒の言葉を拒否したのではなく、心を開いて、新しい生へと心を向けた
のです。神の霊が降ることによって、新しい救いの時代が始まったのです。
 それでは、新しい生の出発はいかなる段取りをもってなされるのでしょうか。

38〜41節「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イ
エス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうす
れば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがた
の子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である招い
てくださるものならだれにでも、与えられているものなのです。』ペトロは、
このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救わ
れなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その
日に三千人ほどが仲間に加わった。」

 ペトロそして使徒たちが、新しい生への第一歩として指示した行為が、「イ
エス・キリストの名によって洗礼を受ける」ことでした。
 イエス・キリストの名による洗礼とは何でしょうか。そして、そもそも洗礼
とは何なのでしょうか。
 旧約聖書の時代においては、洗礼とは潔めの儀式でした。「汚れたものを水
で清める(レビ記11:32)」のです。モノも人も、です。列王記下5章のナア
マンの物語は、この規定に従って、「からだの水による潔め」を預言者エリ
シャが指示したものです。汚れに応じて何度でも清められる必要がありました。
 この洗礼に新しい意味を持たせたのは、バプテスマのヨハネです。バプテス
マのヨハネにとって、洗礼とは回心のしるしです。迫って来ている神の怒り、
終末に向けての悔い改めの洗礼でした。それゆえ、洗礼は生涯に一度のものと
なるのです。
 さて、イエス御自身は洗礼を授けられませんでした。しかし、み業を完成さ
れ、よみがえられたイエスは、弟子たちに「洗礼を授けよ」と指示されました。
イエス・キリストの名による洗礼の始まりです。み業を完成されたイエスの名
による洗礼ですから、それは、終末に備える、に止まらず、終末の救いを保証
するものとなったのです。ゆえに、洗礼には、聖霊の注ぎが、聖霊のバプテス
マが伴うこととなったのです。
 そのイエス・キリストの名による洗礼は、どのような式文に従って授けられ
たのか、それは不明です。が、ここに初めて執行されました。洗礼を受けた人
数を、ルカは三千人と報告しています。が、これは「実数」としては、全くあ
てにならない数字です。私は、「一人」だった可能性もある、と疑っています。
しかし、たとえ「一人」であったとしても、ここにイエス・キリストの名によ
る洗礼が初めて執行され、新しい時代が始まったのです。それは、三千人に止
まらず、世界のすべての人の救いが始まる、画期的な出来事でした。
 この洗礼は、ペトロが言うように、「遠くにいるすべての人々」にも開かれ
ていました。しかし、ここで洗礼を受けた人は、明らかにユダヤ人です。彼ら
は、割礼と洗礼の両方を受けたこととなります。洗礼か、割礼に替わる、神の
国の教会の入会式としての意味を持つようになるのは、もう少し後のこととな
ります。しかし、こうして、洗礼式と共に、神の国の教会の実質的な歩みが始
まったのです。
 次に、それでは、最初の神の国の教会は、どのような日常生活を営んでいた
のでしょうか。

42〜48節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに
熱心であった。
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行
われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、
財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そし
て、毎日ひたたすら心を一つにして家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心
をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せら
れた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのであ
る。」

(この項、続く)



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