2014年09月07日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第4回「使徒言行録2章14〜36節」
  (12/9/16)(その3)
(承前)

「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわた
したちのところにあるとはっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼か
ら生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださっ
たことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨て置かれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人で
す。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注
いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダ
ビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの
主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を、あな
たの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らな
くてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、
またメシアとなさったのです。」

 大変に長いもりですけれども、その中身は単純明快です。後半の説教はさら
に、22〜28節の前半と、29〜36節の後半とに分かれますが、後半の前半、22〜
28節においては、イエスが「神の僕の苦難の道を歩まれたことが記されていま
す。
 神から遣わされて、奇跡と、不思議な業と、しるしとを行われたにもかかわ
らず、つまり神の力を伝えたにも拘わらず、イスラエルの人々はイエスを受け
容れず、打ち捨てました。この「神の僕の受難」は、イザヤ書53章などで将来
のメシアの像として予告されたばかりでなく、神に遣わされた預言者エレミヤ
なども実際に体験したことでした。が、イエスの場合には、その苦難はあまり
にもひどく、律法を知らない者たち、すなわちポンテオ・ピラトの手を借りて、
十字架につけて殺す、までしてしまったのです。が、そこまでされてしまった
イエスですが、詩編16編でダビデが預言したとおり、当時詩編は全てダビデに
よって記されたと信じられていましたが、「陰府に捨ておかれることはない」、
つまり将来の希望として、復活が用意されていると、ペトロを始めとするクリ
スチャンは考え、受け止めている、ということが述べられています。そして、
ここまでは、ユダヤ教と共有できる信仰です。
 そして、後半、29節以下で、そのイエスが、ユダヤ教徒が思いもかけない動
き、働きをされたことが、教会の信仰告白として述べられています。まず第一
に、イエスは事実復活されました。
 27節と31節は同じ詩編16:10の引用のように見えますが、27節が未来形である
のに対して、31節は過去形です。すなわち、使徒たちにとって、イエスの復活
は過去の事実なのです。使徒たちは復活の証人なのです。そして使徒たちはイ
エスの昇天の証人でもあるのです(1:8以下)。
 昇天されたイエスが今何をしておられるのか。それは神の右に座す。すなわ
ち、すべての民の罪のとりなしをしていてくださる。それが、使徒たちの教会
の信仰なのです。それゆえ、今、イエスを通して、キリストを通して、すべて
の民への聖霊の注ぎが起こり、始まったのです。
 ダビデは、詩編110編(34〜35節の引用)において、将来のメシアのイスラ
エルへの支配を預言しましたが、キリストにおいては、すべての民への支配が、
今、実現しているのです。
 それゆえ、イスラエルの民には、悔い改めとキリストへの服従が求められた
のですが、これは、使徒言行録の時代においても、また後の時代においても、
そして今でも実現していません。しかし、教会においても、悔い改めと服従は、
出発点です。私たちも、道を踏み外すことのないよう、悔い改めと、キリスト
への服従の道を歩み続けていきたいものです。

(この項、完)


第5回「使徒言行録2章37〜47節」
  (12/9/23)(その1)

37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、
『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」

 過ぐる週、先週は、ペンテコステの日にペトロがなしたとされる説教につい
て学びました。簡単に振り返りますと、この説教は二部からなっていました。
第一部は、ペンテコステの出来事についての解釈です。それは、神の霊が降る、
という終末の開始の出来事である、ということでした。
 第二部は、イエスの働きについて、です。イエスは、苦難に遭いましたが、
預言者の一人として、復活の命を与えられたばかりではありません。天へ昇り、
神の右に座し、メシアとして執り成してくださったのです。それゆえに、この
終末の出来事は、悔い改めるイスラエルを始め、すべての人々の喜びとなった
のです。
 さて、本日は、このペトロの説教を受けての人々の反応と、その人々へのペ
トロの指示です。なお、ここで言う人々とは、当然のことながらユダヤ人、イ
スラエルの人々です。その人々は「大いに心を打たれ」ました。

(この項、続く)



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