2014年08月17日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第3回「使徒言行録2章1〜13節」
(12/9/9)(その2)
(承前)
1〜13節「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激
しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。す
ると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し
だした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユ
ダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれも
かれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまっ
た。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤ人
ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くの
だろうか。わたしたちの中には、パルティア、メデイア、エラムからの者がお
り、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、
パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。ま
たローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、
クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大
な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『いったい、
これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新し
いぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」
過越祭から50日目、春の収穫祭の日のことです。使徒たちだけでなく、教会
のメンバーが集まって祈っていると、聖霊が降されました。そして、聖霊をい
ただいた人々は世界中の言語で語りだした、という不思議な物語です。本当に
そんなことがあったのか、と疑う方もいらっしゃることでしょう。また、仮に
何かが起こったとしても、事実そこで起こったことは何で、そこには一体どう
いう意味があったのか、とかねがね考えていらっしゃった方もいらっしゃるか
も知れません。そこで今日は、一歩踏み込んで、ペンテコステの出来事の意味
について、学んでいくことといたしましょう。
まず第一に言えることは、使徒言行録の著者ルカの設定によれば、この出来
事は、使徒たちと、そしてその他の人々の洗礼式として、設定されている、と
いうことです。
イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、その時、天から聖霊が降っ
て(ルカによる福音書3:22)、それから宣教活動を開始しました。同じように、
使徒たちも、教会も、聖霊によるバプテスマを受けることによって初めて、宣
教に遣わされることができるのです。
そもそも旧約聖書の時代から、神は、神の霊を人に降されることにより、神
のご意思を人間に伝えたり、実行したりして来られました。とり分け、預言者
の預言活動と神の霊とのかかわりは深いものがあります。最初期の預言者は、
神の霊を受けて預言活動を行いました(サムエル記上10:10)。エリヤ以降、
イザヤ、エレミヤなどの大物の預言者には、神は直接お言葉をかけておられま
すが、将来の預言者メシアについては、神の霊を受けて活動する、とされてい
ます。
しかし、ある人に神の霊が降ってとして、どうしてそのことが分かるのでしょ
うか。霊は目に見えませんから、普通は分かりません。しかし、神の霊が降っ
たことが分かる、分からせる必要があるときには、神は、神の霊が降ったこと
を示す「しるし」をお与えになるのです。その「しるし」の一つのタイプは、
目で見、耳で聞くことができる自然現象です。「霊」という語は、ヘブライ語
で「ルーアハ」と言い、これは、「風」という意味の語でもあるのですが、
「風」はしばしば、「霊」が降った「しるし」でした。エゼキエル書33:9の
「谷の物語」においては、「霊」が四方から吹いて来て、枯れた骨に命を復活
させました。旧約聖書時代は、「霊」が降った「しるし」は「風」だったので
す。が、ユダヤ教の時代になると、神の「霊」は、「光」と「大きな音」とを
もって、つまりそのような「しるし」を伴って降ることがある、と考えられる
ようになってきました。もちろん、「しるし」は、あくまでも「しるし」です
ので、「しるし」が与えられることもあり、与えられないこともあり、また、
与えられたとしても、「分かる人には分かる」という類のものであることは言
うまでもありません。
もう一つのタイプの「しるし」は、神の霊が降ったその人が、「エクスタシー
状態(忘我状態)」になることもある、ということです。サウルは神の霊を受
けて「エクスタシー状態(忘我状態)」になり、預言を始めました(サムエル
記上10:10)。はたから見ると、正気でないかのように見えるかもしれません。
が、見る人が見れば分かる、ということです。もちろん、この「しるし」も必
要なときに与えられるのであって、神の霊が降ったとき、いつでもこうなる、
という訳ではありません。
ルカはこれらの旧約聖書、ユダヤ教の伝統を踏まえて、ペンテコステの出来
事を記述しました。聖霊は確かに降りました。そして、その「しるし」として、
風が吹くとか、音がしたとか、(光ではありませんが)火が見えたとか、使徒
たちが「エクスタシー状態(忘我状態)」になったとかいうことが起こり、そ
の「しるし」が分かる人には分かった、ということなのです。
(この項、続く)
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