2014年07月27日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第1回「使徒言行録1章1〜14節」
(12/8/26)(その2)
(承前)
神を知らずして、神への畏れなど全くなく、この敬称を平気で普段使ってい
る、使われている実在のローマ総督への敬称としてそのまま引用するというこ
とはあり得ても、ローマの官僚であったとしても、キリスト教に理解のある人
物、つまり、神を畏れる人物にこの敬称を使う、ということはありえないので
はないでしょうか。
ゆえに、我々は、テオフィロなる人物は、神を知り、神を畏れる人物ではな
かった、と結論付けざるを得ないのです。
では、その神を畏れぬ、おそらくローマの官僚たる人物に、ルカによる福音
書と使徒言行録を献呈することにどのような意味があるのでしょうか。そこに
は、「皮肉」とも言える重大なメッセージが込められている、と考えられるの
です。
使徒言行録は、異邦人伝道の記録です。しかし、それはそこに止まるもので
はなく、ローマに対抗して、神の力を示す書でもあるのではないでしょうか。
この神の力は、第1巻、ルカによる福音書において記されているごとく、ま
ず、イエスにおいて示されました。
3〜11節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証
拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話
された。そして彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレ
ムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハ
ネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマ
を授けられるからである。』
さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してく
ださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権
威をもってお定めになられた時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレ
ムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わ
たしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に
上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去っ
て行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人が
そばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているの
か。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた
がたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。』」
使徒言行録が最初に触れる出来事はイエスの昇天でした。この出来事は、イ
エスにおいて神の力が働いていたことを完全に証明すると共に、ここからは、
使徒たちがイエスの働きを担うことになる、ということを示す出来事でした。
そもそもルカにおいては、イエスの誕生自体、神の力によるものです。母マ
リアに対して、イエスが聖霊によって身ごもることが明らかにされているから
です。
しかし、ルカにおいて、イエスが神から遣わされた者であることが最も明ら
かにされるのは、受洗の時でした。受洗の時、ルカによれば、聖霊が「目に見
える形で」イエスに降るのです。そして、それよりイエスの宣教活動が始まる
のです。
そして、今や十字架というメシアとしての苦難を乗り越えられて復活をされ
たイエスが、もう一度、最終的に、神から来られた方であることを証明する出
来事が、昇天でした。天を表わし、なおかつ隠す働きをする雲が現れます。そ
して、「白い服を着た二人の人」、天使が現れます。ルカにおいては、受胎告
知においても、復活においても、神の力が働くところにおいては必ず天使が現
れます。ここでもそうです。この人々によって、昇天が神によってなされた出
来事であることが証明されると同時に、イエスが終末の時に再び来られること
が証しされます。
こうして、イエスが去られることにより、使徒の時代が始まりました。
12〜14節「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って
きた。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離のとこ
ろにある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは
ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタ
イ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を会わ
せて熱心に祈っていた。」
イエスの昇天がなされた、ということは、イエスの再臨を待つ時代が始まっ
た、ということです。その間、天において神の右に座しておられるイエス(詩
編110:1)に替わって、使徒たちが神の力の担い手とならねばなりません。
使徒たちに神の国の宣教が託されます。しかし、使徒たちは、イエスと違って
聖霊の力によって生まれた者ではありません。しかし、イエスもそうであった
ように、聖霊によるバプテスマを受けることによって、神の力の担い手となる
ことができるのです。
私たちも、使徒の働きが期待されていることを忘れてはなりません。
(この項、完)
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