2014年07月13日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 56回「ローマの信徒への手紙16章25〜27節」
(12/8/12)(その2)
 (承前)

 マルキオンは、後に異端と判定されように、明らかにパウロと異なる信仰理
解を持っていました。そして、ローマの信徒への手紙15章、16章を削ってしまっ
たのです。が、教会はパウロの信仰の義を正しく伝えることを守り、マルキオ
ンの編集を排除しました。それゆえ、今、ローマの信徒への手紙15章、16章は、
ローマの信徒への手紙の欠かすことのできない一部分として残されているので
す。
 さて、その上で、本日のテキスト、ローマの信徒への手紙16:25〜27です。
ここは、実は第三の編集として付け加えられた部分と考えられます。なぜな
ら、ここは手紙の最後を締めくくる頌栄なのですが、15章の終わり、33節にも、
16章1〜23節の後、24節にも頌栄がすでにあるからです。
 それでは、一体だれが何のために、この頌栄を加えたのでしょうか。そして、
それは正しい編集だったのか、見ていくことといたしましょう。

25〜27節「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によっ
て、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたっ
て隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現され
て、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順
に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一
の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アー
メン。」

 日本語の翻訳では分かりにくいかもしれませんが、この部分は、途中にピリ
オドが一つもない、一文です。頌栄の形をはっきりとっています。この文の本
体部分は、「神に栄光があるように、アーメン。」なのです。
 それでは、その他の部分は何を言っているのでしょうか。その第一は、その
神がパウロを通して働かれた、ということです。
 神はどのようにしてパウロを通して働かれたのでしょうか。パウロの生涯を
振り返って見ましょう。パウロは、そもそもはユダヤ教の律法学者でした。し
かし、神の前で厳しく自分を問う彼は、律法の義の限界、すなわち、人は自分
の力によってはだれ一人義とされないということに勘づいていたのではないか、
と考えられます。そして、彼は、よみがえりのキリストに出会いました。キリ
ストと出会って何が変わったか、と言えば、それは、キリストの働きに魅せら
れた、というよりは、神がキリストを通して救いの業を完成させてくださった
ことに目覚めたのです。「信仰の義」に目覚めたのです。
 目覚めた彼は、この福音を異邦人に伝えることを、自分の使命と受け止めま
した。福音の担い手となったのです。
 以上の、パウロ自身に起こった出来事を踏まえて、この頌栄は「わたしの福
音」、つまり、「イエス・キリストについての宣教」を神が主導し、異邦人を
強めてくださった、と述べています。この部分に関しては、この頌栄は、パウ
ロが書いたとしてもおかしくはないし、パウロがローマの信徒への手紙で述べ
たこと、いや、パウロの宣教活動全体を総括してものとも言えるのではないで
しょうか。
 しかし、この頌栄は、ローマの信徒への手紙の本文では触れていないことに
ついても述べているのです。それは、25節後半から26節半ばのところです。世々
にわたって、すなわち創造以前から隠されていた神の御計画の表れだ、という
のです。
 もちろん、パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、神のキリストを通して
の贖いの業が、神の御計画に基づくものであることを繰り返し述べてきました。
しかし、そのご計画が天地創造の前からあって、しかも、隠されてきた、とは
ローマの信徒への手紙の中にはどこにも記されていません。25〜26節は、果た
してローマの信徒への手紙の内容と合致するのでしょうか。
 実は、「神の救いのご計画は、天地創造の前からあって、隠されていたが、
キリストにおいて明らかにされた、現された、という考え、言い方は、エフェ
ソの信徒への手紙に見られるものです。
 すなわち、エフェソの信徒への手紙1:4は、
「天地祖創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れ
のない者としようと、キリストにおいてお選びになりました。」と述べていま
す。
 神の救いのご計画が、本当に確かなものだ、という考えを突き詰めていけば、
「それは天地創造の前からあった」というところに行きつきます。しかし、そ
のことはローマの信徒への手紙で触れられていたでしょうか。
 ところで、天地創造の前から、神のご計画があったとして、人はどのように
して、天地創造の前の神のご計画を知ることができるのでしょうか。ギリシア
哲学や、神秘主義の考えにおいては、理性によって、ですとか、黙想によって、
というふうに言われるでしょうか、聖書の考えによれば、神のご計画を人間の
側から知りうる手段は全くありません。

(この項、続く)



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