2014年06月22日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

〔ロー マの信徒への手紙講解説教〕
第54回「ローマの信徒への手紙16章17〜20節」
(12/7/29)(その2)
(承前)

 すなわち、ここで、今までローマの信徒への手紙の本文には登場しなかった
「異端」の問題が初めて登場することとなったのです。
 そもそも「異端」とは何か、と言えば、キリスト教の内部にありながら、キ
リスト教を危うくする教えのことを言います。しかし、正統と異端との関係は
大変に微妙です。しかも、教会は異端に対して、間違った対応をしてきた、と
いう負の歴史も負っているのです。
 さて、後に「異端」と訳されるようになるギリシア語の語は、「ハイレシス」
という語です。が、新約聖書で、明らかに「異端」の意味でこの語が用いられ
ているところは、一箇所(ペトロ二2:2)しかありません。
 この語は、もともとは「選ぶ」という意味の動詞から出ている語で、本来は
「意見の衝突」とか「分派」を指す語でした。この語の意味から明らかになる
のは、次のことです。すなわち、教会の歩みの中で、教理についての論争が起
こります。お互いに「自分は正しく、相手は間違っている」と主張いたします。
「意見の衝突」が起こり、「分派」が生じます。しかし、論争を深めていくう
ちに、自然に、というか、まさに聖霊の導きによって、「正統」と「異端」と
が明らかになっていく、ということです。
 ところが、4世紀にキリスト教がローマ帝国から公認され、国教とされ、唯
一の公認の教会というものが権威を持つようになってきますと、事はそう簡単
にはいかなくなってきます。教理論争によって「正統」と「異端」とが弁別さ
れていく、のではなく、唯一の公認の教会の言うところ以外は、すべて「異端」
とされ、法的にも断罪されるものとなったからです。
 「異端」への断罪は、13世紀にカトリック教会が異端審問、すなわち宗教裁
判を開始し、死刑を導入することによって、極端に走るようになりました。神
学論争はどこかへ吹き飛び、ドミニコ会が異端摘発専門の修道会として組織さ
れ、多くの人が命を落とすこととなりました。宗教改革者のルターも、第2ト
リエント公会議で「異端」とされていますから、時代と状況が少し違えば、火
あぶりの刑に処せられていたところです。が、この、「論争そっちのけで裁き
に走る傾向」は、プロテスタント教会にも受け継がれており、宗教改革後も、
魔女狩りという名の「異端審問」が行われ続けています。
 現代、カトリック教会においては、特に第2バチカン公会議以降、異端審問
の在り方をすっかり変えております。が、そもそも、パウロは、「異端」に対
してどう対処すべきだ、と言っているのでしょうか。

 19〜20節「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあな
たがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあること
を望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打
ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にある
ように。」

 実は、パウロがここで怒りをもって戦っている「異端」の中身が、考えが全
く分かりません。ただ、かなり手強いことだけはわかります。しかしそれでも、
それに対抗するには、物理的な「力」ではなく、一人一人においては、ヌース
によって、教会においては神学論争において対峙するしかない、ということで
す。
 結果、その「異なる教え」が本当にキリストに反するものであるならば、神
の裁きがあるでしょう。創世記3:15において蛇に対してなされた裁きがなさ
れる、ということです。
 しかし、平和の神であり、平和の源であられる神が裁きを発動されるのは、
終末の時です。それまでは、人が裁きを先行させてはなりません。待たねばな
りません。
 以上が、パウロが示した、そもそもの異端への対処法です。
 さて、教会は、一方では、「多にして一」なる教会の理想を求めて、すべて
の人を受けいれねばなりません。しかし、一方では、神学論争において「異端」
を識別し、そこから距離を置かねばなりません。片方でさえ大変なのに、これ
らの、一見相矛盾する務めを果たしていくことができるのでしょうか。しかし、
教会が聖霊の宮であり続けようとするならば、この二つの務めを同時に果たし
ていかねばなりません。
 まだ見ぬローマの教会に、とりわけ「多にして一」なる教会の在り方を求め
つつ、同時に「異端」への対応も、決して怠ることなく、間違うことなく行う
ように、と、最後に付け加えた、というのが、この部分の付加の理由と考えら
れます。
 現代のわたしたちの教会も、全く同じ課題を与えられている、と言えます。
どうか、キリストを証し続けることができるように、聖霊の豊かな導きを求め
つつ、「多にして一」なる教会の在り方を求めつつ、同時に「異端」への対応
も、決して怠ることなく、間違うことなく行い得るよう、祈り求めてまいりま
しょう。

(この項、完)


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