2014年06月15日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 53回「ローマの信徒への手紙16章1〜16節」
(12/7/22)(その3)
(承前)

 これは名前からの推測にすぎませんが、エフェソ教会には、ギリシア人(異
邦人)とユダヤ人の両方がいたことが分かります。また、同胞と言われる伝道
者、家族ぐるみで教会につながっている人々の存在、さらに、14、15節からは、
教会内の小グループ(家の教会)の存在もうかがえます。身分の違う人が共に
属していたかもしれません。
 一方、「主にあって苦労している(6、7、12節)人々」の存在は、この教
会がキリストとしっかりと結びついていることを明らかにします。さらに、ル
フォスの母をパウロは「自分の母」と呼んでいる(13節)ことからすると、信
徒同士の結びつきも強固なものだったことが窺えます。
 この「多にして一」なる教会の在り方は、「信仰の義」によって救われた者
の集まりとしての教会の在り方そのものです。これはエフェソ教会のものでは
ありましたが、「信仰の義」によって貫かれたローマの信徒への手紙の末尾に
加えられた具体例として、最もふさわしい例だったのではないでしょうか。私
たちも、「多にして一」なる教会の形成を目指して歩んでまいりましょう。


第54回「ローマの信徒への手紙16章17〜20節」
(12/7/29)(その1)

17節「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、
不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」

 前回はローマの信徒への手紙16:1-6を学びました。26人ないしはそれ以上
の人への心のこもった挨拶が連ねられています。が、まだパウロが出かけたこ
とのない教会に、パウロの知り合いがこんなにたくさんいるわけがありません。
それゆえ、この部分は、そもそもは別の教会にあてて書かれたものであったこ
とが明らかです。その教会はどこの教会でしょうか。それは、パウロと、プリ
スカとアキラの夫婦との特別の関係から、「エフェソ教会である」とほとんど
断定されるのです。パウロは、第三伝道旅行の途次、自分の生命が危険にさら
されるような困難に出会ったようです。その時、これまた自分の首を差し出さ
んかばかりにして、パウロの生命を守ってくれたのが、プリスカとアキラだっ
たのです。パウロはプリスカとアキラを始めとするエフェソ教会の人々に、特
別の感謝の思いを込めて、この挨拶を送ったのです。そのエフェソ教会の人々
への挨拶がローマの信徒への手紙の末尾に添えられているのは、信仰の義に基
づく教会形成の見本を示す意味があったからなのではないでしょうか。
 さて、本日のテキストは、その挨拶の続きです。この部分も本来はエフェソ
教会にあてて書かれたものだったのでしょうか。あるいはこの部分はローマの
教会にあてて書かれたものだったのでしょうか。私たちは、この問いを避ける
わけにはいきません。が、その前に、ここに書かれている内容について見てい
くことといたしましょう。ここのテーマは「あなたがたが学んだ教えに反して、
不和やつまずきをもたらす人々」のことです。それは一体どういう人のことな
のでしょうか。そのことを明らかにしていくために、18節も参考にしてまいり
ましょう。

18節「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の
腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の
心を欺いているのです。」

 ローマの信徒への手紙において、教会内の対立については、すでに「強い人」
と「弱い人」の対立に触れてきました。「強い人」と「弱い人」の区別は、肉
体的、精神的な意味での強い、弱いの区別ではありませんでした。信仰が強い
人と弱い人の区別です。ですから、私たちの想像と全く逆に、律法の義に全く
とらわれず、信仰の義を素直に受け入れる人、すなわち「異邦人信徒」が強い
人、イエス・キリストを受け容れはしたのだけれど、律法の義にまだこだわっ
てしまう「ユダヤ人信徒」が「弱い人」ということなのです。
 この「強い人」と「弱い人」の区別を信仰の義の観点から見ると、強い人が
より正しくて、弱い人はより正しくない、ということになります。そこで、
ローマの信徒への手紙16:17ですが、「あなたがた」を教会内の「強い人」と
解釈して、「強い人」に、「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまず
きをもたらす人々(「弱い人」)を警戒しなさい」とパウロが勧めているのだ
とする解釈がなされ、しかもかつてはその解釈が主流でした。
 しかし、18節によって、その解釈が間違いであることが明らかとなります。
たしかに教会内には、「強い人」と「弱い人」の対立があり、そして、両者の
間に、信仰の義について、十分に受け入れているか、まだ律法の義へのこだわ
りを捨てきれずにいるか、の違いはありますが、どちらも、キリストによる贖
いを受け入れている、という点では同じなのです。ところが、ここで登場する
敵対者は、18節によれば、「キリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」
というのです。反キリストなのです。しかも教会内に対立を引き起こしている、
ということは、洗礼を受けてクリスチャンになってはいるものの、実はキリス
トを信じていない「偽クリスチャン」ということになるのではないでしょうか。

(この項続く)



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