2014年05月25日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 52回「ローマの信徒への手紙15章30〜33節」
(12/7/15)(その2)
(承前)

 エルサレム会議後のことです。エルサレム会議の決定を受けて、すなわち、
異邦人クリスチャンは、割礼を始めとして、律法の遵守を一切求められないと
いう決定を受けて、アンティオキアの教会では、異邦人信徒とユダヤ人信徒と
の共同の食事が行われるようになっていました。そして、アンティオキアの教
会は異邦人信徒中心の教会ですから、律法の食物規定を気にかけることなく、
食事が行われていたことと思われます。アンティオキア教会のユダヤ人信徒が
どうしていたかは、報告がないので分かりませんが、参加する者もあり、参加
しない者もあり、という状況だったとも推測されます。しかし、教会の指導者
たるユダヤ人信徒、パウロはもちろん、ケファ(ペトロのこと)も、バルナバ
も共に食事に参加していました。
 ところが、そこへエルサレム教会から派遣された人々がやってきました。そ
して、その人々は「ユダ人信徒は共同の食事から手を引け」と言ったのです。
ユダヤ人信徒が異邦人信徒と食事を共にすることによって、律法違反になるこ
とを恐れたのです。が、パウロは食事から手を引きませんでした。クリスチャ
ンは、律法からは自由であるべきだからです。ところが、他のユダヤ人信徒は
手を引いてしまいました。そして、ケファ、バルナバまでもが手を引いてしま
いました。それで、パウロは特にケファを標的にして、「あんたは、律法から
自由になったはずではないのか」と非難した、というのが、ガラテヤ2:1〜11
が伝える、アンティオキアの衝突と言われる事件の概要です。
 この後アンティオキア教会はどうなったのでしょうか。ここからは推測です
が、異邦人信徒がユダヤ人信徒に妥協し、律法の一部を守ることで、共同の食
事を再開したのではないでしょうか。しかし、律法の、たとえ一部でも異邦人
信徒に押し付けられる、ということは、信仰の義の立脚点からして、パウロに
とっては許しがたいことです。結果、パウロはアンティオキアの教会とは訣別
し、これ以降の伝道、第二伝道旅行以降の伝道は、アンティオキア教会の伝道
としてではなく、パウロの「個人伝道」として行われることとなったのです。
 自立伝道は、困難ではありますが、自由でもあります。自由になったパウロ
は、大胆に「信仰の義」を説くこととなります。
 使徒言行録16章によれば、パウロは第2伝道旅行において、初めてギリシア
本土に渡り、フィリピ、テサロニケ、ペレア、アテネ、コリントで伝道し、
このうち、少なくとも、フィリピ、テサロニケ、コリントでは教会を設立しま
した。それぞれの町に、ユダヤ教のシナゴグや祈る場所があり、パウロはそこ
を拠点に伝道したことは確かです。が、伝道の主たる対象はあくまでも異邦人
であり、ここに、パウロの手による純粋の異邦人教会が形成されていくのです。
そこでのパウロの宣教内容ですが、使徒言行録では、一見「しるしと奇跡」が
強調されているように見えますが、それぞれの教会にあてられた書簡を見ると、
コリントの信徒への手紙二の一部を除いて(そこはユダヤ人信徒対象の部分で
す)、旧約聖書の引用がないのです。つまり、律法と関係なく、福音が説かれ
ていた、という一つの証左です。
 当然、パウロとエルサレム教会との距離は、アンティオキア教会時代よりも
いっそう広がってしまいました。エルサレム教会は、ますますパウロを危険視
するようになりました。しかし、「キリスト教」としては、パウロの教会の方
が明らかに本流なのですから、パウロは、エルサレム教会と縁を切ってしまっ
ても、何ら責められるところはなかったはずです。しかし、パウロはそうしま
せんでした。たとえ嫌われてもエルサレム教会を愛し、その溝を埋める「隣人
愛」のしるしとして、献金集めに命を懸けました。
 なぜ、そこまでするのでしょうか。それは、パウロ自身がユダヤ人であるこ
との故の同胞愛から出ているのではないでしょうか。ユダヤ人として、神の救
いの変わり目を自ら体験した者として、同胞を「神に見棄てられた民」とはし
たくなかったのではないか、と思われます。
 が、現実には、パウロとエルサレム教会との距離は決定的にひろがってしまっ
ていたわけで、事はパウロの心配どおりに進んで行きました。

 そして、実は、このローマの信徒への手紙自体も、パウロの同胞愛の産物だっ
た、と考えられるのです。
 私たちは、このローマの信徒への手紙の講解説教を、パウロの、まだ見ぬ、
しかしこれから訪れるであろう教会への挨拶状のようなものである、とする仮
説をもってスタートしました。しかし、事は切迫しています。エルサレムへ行っ
て、エルサレム教会がパウロの働きに理解を示してくれるように説得するため
に、すなわち、エルサレム教会が、神の救いの歴史に乗り遅れないように、
ローマの教会にも、パウロの後押しをしてほしかった。これが、パウロの
ローマの信徒への手紙執筆の本当の目的であった、と考えられるのです。

(この項、続く)



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