2014年05月18日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 51回「ローマの信徒への手紙15章22〜29節」
(12/7/8)(その3)
(承前)

 「また、わたしが言ったとおり、(献金を)用意していてもらいたいのです。
そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできて
いないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように(献金
を献げるべきだと)確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからで
す。」こうしてやっと集めた募金を、エルサレム教会にきちんと届けた上で、
いよいよパウロは自分自身の使命の後半部分、帝国西半分への伝道に出たい、
と言っているのです。が、このパウロの願いは、先ほども触れましたように、
未完のまま終わってしまいました。
 しかしそれにつけても、なぜ「強い人」異邦人教会が、「弱い人」エルサレ
ム教会を献金という形で援助する必要があるのでしょうか。パウロは、この点
について、「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかった
のですから、肉のもので彼らを助ける義務があります(27節)」と言っています。
異邦人教会は、そもそもはエルサレムでの迫害を逃れていった人々によって設
立された教会で、エルサレム教会と直接の系譜上でのつながりはありません。
しかし、それでも、イスラエルそしてユダヤ人に与えられていた霊の賜物を分
かち合った、という点では、異邦人教会とエルサレム教会とは、一つの教会の
仲間です。しからば、すでに学んだように、「強い人」異邦人教会は、「弱い
人」エルサレム教会を裁かず、付き合い、喜ばせることが必要なのです。この
「喜ばせる」に当たるのが、献金なのです。その献金は、「強い人」異邦人教
会が、自分自身の身を削ってエルサレム教会を守る隣人愛のしるしです。ユダ
ヤ教徒からの迫害の嵐にさらされている「弱い人」エルサレム教会を守るため
に、この献金は必要だったのです。
 パウロはこうして、「弱い人」エルサレム教会を守るために、自分自身の命
をもかけることとなりました。私たちも、自分自身の思いを超え、与えられた
自分自身の使命に生きる者でありたいものです。

(この項、完)


第52回「ローマの信徒への手紙15章30〜33節」
(12/7/15)(その1)

30〜31節「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊が
与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと
一緒に神に熱心に祈ってください。私がユダヤにいる不信の者たちから守られ、
エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、」

 前回のところで、パウロの二つの使命を確認しました。一つは世界伝道、す
なわち異邦人伝道。もう一つは、異邦人教会の信徒に、自分の体を、生きた、
聖なるいけにえとして献げさせること、すなわちエルサレム教会への献金を募
ることでした。
 そして今、パウロは、帝国の東半分での伝道そして献金集めを終えたところ
です、これからエルサレムへ献金を持っていくところです。どうか、そのたび
の無事、安全を祈ってほしい、ということで、ローマの信徒への手紙の本来の
締めくくりである15章は終わっているのです。
 しかし、そのパウロの祈りの願い求めは異常です。せっぱつまっています。
その証拠を二例あげます。一つは、「お願いします」と訳されている語ですが、
本来の意味は「嘆願する」「懇願する」との意です。第二は、「わたしと一緒
に神に熱心に祈ってください」と訳されている部分、原語に忠実に訳すと「わ
たしのための神への祈りにおいて、わたしと共闘してほしい」となります。パ
ウロが、以下の祈りの内容について、異常に心配していることが分かります。
 パウロは一体何をそんなに心配しているのでしょうか。その第一は「ユダヤ
にいる不信の者たちの妨害」、第二は「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖
なる者たちに歓迎されるように」、すなわち献金を受け取ってくれるかどうか、
という心配でした。
 第一の心配のわけをまず明らかにしていきましょう。パウロがローマの信徒
への手紙を書いた55〜56年ころ、ユダヤはローマ総督フェリクスの統治下にあ
りました(52〜60年)。ヨセフスによれば、フェリクスは、割礼を受けないまま、
ヘロデ・アグリッパ王の娘ドルシアと結婚したことにより、ユダヤ人の大顰蹙
を買ったとのことです。この事件のおかげで、ユダヤの民族主義が高まり、そ
の結果、エルサレム教会も圧迫を受けることとなりました。パウロのような異
邦人伝道に従事する人物は最も危険視されたのです。パウロも、このユダヤの
情勢を分かっていたのでしょう。心配でした。そして、心配どおりになってし
まいました。
 ところが、この時点では、パウロにとって、第一の心配よりも、第二の心配
の方が大きいように見えます。いったいなぜなのでしょうか。その理由を明ら
かにするためには、パウロとエルサレム教会との関係ばかりでなく、アンティ
オキア教会との関係も明らかにしておく必要があります。

(この項、続く)



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