2014年04月20日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
49回「ローマの信徒への手紙15章7〜13節」
(12/6/17)(その3)
(承前)
第一の引用(9節)は詩編18:50、第二の引用(10節)は申命記32:43、第三の引
用(11節)は詩編117:1、第四の引用(12節)はイザヤ書11:10からの引用です。
が、どれも、異邦人こそ、神に喜ばれる民、神の支配にふさわしい民である、
というふうに読み替えられています。どこでこのようなことが起こったのでしょ
うか。
それは、イエスの十字架と復活、そしてそれに加えて高挙によってです。イ
エスは十字架においてすべての人の罪を贖い、よみがえりと高挙において、全
世界の支配者になられました。このキリストの支配の下にいる者はだれでしょ
うか。それは信仰によって義とされる人、すなわち何ものをも持たない人。異
邦人にしてキリストを受け容れる人、異邦人クリスチャンが、キリストの支配
にもっともふさわしい者なのです。今は、異邦人教会はできたばかりで、現実
には人数も少なく、力の弱いものであるかもしれません。しかし、信仰の義ゆ
え、異邦人信徒は救いの王道におり、その意味で「強い人」となったし、これ
からも「強い人」であり続けることでしょう。
一方のユダヤ人はどうでしょうか。割礼が、そして割礼に代表される律法が
邪魔をしました。キリストと割礼を天秤にかけるのです。信仰による義をなか
なか受け入れられません。かつてのパウロがそうであったように、実際にキリ
スト者を迫害するところまで走ることはなくとも、信仰の義をなかなか受け入
れられません。かくして、教会においては、「弱い人」となってしまったので
す。逆転がおきたのです。
しかし、キリストご自身は、実は「割礼ある者」として生まれられ、しかも
乗り越えられました。時間がかかるかもしれませんが、ユダヤ人一般において
も、その垣が乗り越えられる時が与えられるでしょう。それまでは、「弱い人」
として、信仰による義にすでに生きている者から憐れみを受けつつ生きるので
す。
教会内において、「強い人」が「弱い人」に隣人愛ないし憐れみを施すとき、
そこに「神の支配」が実現する、とパウロは言っていました(6節)が、もしも
異邦人とユダヤ人との融和が歴史上において本当に起こるなら、その時こそ、
真の神の国、神の支配の実現である、とパウロは見ているのです。
13節「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和であな
たがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように。」
教会は、「全世界に出て行って福音を宣べ伝える」という前向きの使命と共
に、異邦人とユダヤ人との融和という「当初からの課題」も抱えています。実
は、21世紀の今日においても、そのことは希望に止まっています。が、希望の
神(この表現はここにしかありません)が、必ずそれを実現させてくださるに
違いありません。そのことを信じて、私たちも歩んでいきたいものです。
(この項、完)
第50回「ローマの信徒への手紙15章14〜21節」
(12/7/1)(その1)
14〜15節「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、
互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たに
してもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。そ
れはわたしが神から恵みをいただいて」
今まで4回にわたって、教会内の「強い人」「弱い人」の問題にかかわって
きました。「強い人」と「弱い人」が教会の中にいる、ということは、どの時
代、どの教会においてもあることなのですが、パウロの教会においては、「強
い人」とは異邦人クリスチャンのことであり、「弱い人」とはユダヤ人のこと
でした。
ユダヤ教時代までは、ユダヤ人が「強い人」で、異邦人が「弱い人」でした。
救いは、イスラエルの割礼を受けた者だけに限定される、と考えられていたか
らです。異邦人も、この救いの仲間に招き入れられては来ました。しかし、割
礼を受けてユダヤ人になって初めて、仲間と認められたのです。要するに「二
級市民」扱いでした。
しかしながら、イエス・キリストの出来事、イエスの十字架と復活と、さら
には高挙の出来事によって事態は逆転しました。律法による義ではなく、信仰
による義が確立されたのです。信仰による義はもちろんすべての人に開かれて
います。しかし、何らの業をも要求されない、という点において、異邦人に最
も開かれています。ユダヤ人は出遅れました。信仰による義を素直には受け入
れないのです。クリスチャンになっても、業にこだわるあまり、救いに条件を
付けてしまうのです。
しかし、神が、イスラエルを救うとの約束を違えられることはありません。
ユダヤ人は、異邦人クリスチャンの隣人愛によって支えられ、やがていつの日
か、その日はまだ来てはいませんけれども、共に主なる神を賛美する日が来る
に違いありません。
(この項、続く)
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