2014年04月13日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 49回「ローマの信徒への手紙15章7〜13節」
(12/6/17)(その2)
(承前)

 「弱い人」、「強い人」と言っても、私たちが通常考えるような「強い人」、
「弱い人」の事ではありません。体力的に強いがゆえにかえって「弱い人」に
なっている人もあり、一方、肉体的、精神的弱さを抱えているがゆえに、かえっ
て「強い人」になっている人もいます。あくまでも「信仰的に」強い人か、弱
い人か、という区分です。
 そして、その「強い人」が「弱い人」を批判せず、軽蔑せず、つまり裁かず、
「弱い人」が抱えている習慣に付き合ってやり、つまりそこまで降りてきて、
しかも外からの迫害に対しては、自分が盾となって「弱い人」を守る、その時、
教会に「一致」、すなわち、神の支配の実現があることを学びました。
 しかし、ここで2つの疑問が起こってくるのではないでしょうか。
一つは、「強い人」はなぜそこまで与え続けなければならないのか、という疑
問です。「強い人」は、そこまで要求されるに値する恵みを受けているのでしょ
うか。
 第二は、「弱い人」は、どうしてそこまで受け続けるのか、という疑問です。
「弱い人」の欠乏はそこまで悲惨なのでしょうか。
 ところが、15:7に至って、パウロはどうやら、「強い人」「弱い人」という
言い方でもって、異邦人クリスチャンのことと、ユダヤ人クリスチャンのこと
を言っているらしい、ということが見えてくるのであります。一体、どちらが
「強い人」で、どちらが「弱い人」なのでしょうか。そして、この両者の間に
おいて、「強い人」から「弱い人」に一方的に愛が注がれ続けなければならな
い理由とは?私たちも、パウロの意図に注目してまいりましょう。

8〜9節前半「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者
たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証され
るためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。」

 少し時代をさかのぼりますが、キリスト教以前のユダヤ教の時代、そこでは、
教会に当たるものはイスラエル民族全体でした。そして、イスラエルにおいて
は、イスラエル人が「強い人」であり、異邦人が「弱い人」でした。
 そもそも、ユダヤ教は、ユダヤ人、イスラエルのみが救われるとする宗教で
す。異邦人は、救いの対象ではありません。そこで、異邦人をあたかも害虫で
でもあるかのようにみなす生活態度さえ、生まれて来ていたのです。
 しかし、時代が下り、ユダヤ人が世界各地に住むようになりました。そこで
は、ユダヤ人も異邦人と同じギムナジウムで学びます。同じ劇場で観劇します。
同じ温泉で湯につかり、お互いに商取引を行い、同じお店で働くこととなりま
す。知ることにより、理解が深まり、寛容の思想も生まれてきます。ユダヤ人
哲学者のフィロは、「ユダヤ教の神と、異邦人の神とは、本来は同じ神だ」と
まで言うようになりました。とは言え、あくまでも「平和共存」が限界でした。
 が、本来民族宗教であるユダヤ教ですが、改宗運動が行われるようになりま
した。その証拠に、139年B.C.に、ローマ市で、ユダヤ人追放事件が起こりま
す。これは、ローマ市が、改宗運動を嫌ったため、と考えられています。実際、
異邦人にしてユダヤ教への改宗者はかなりの数にのぼり、改宗者の中には、
ローマ皇帝のおいですとか、元老院議員の妻なども含まれていました。結局、
ユダヤ教の「教会」には、かなりの数の「異邦人信徒」が含まれていたのです。
 しかし、異邦人がユダヤ教に改宗するためにはそもそも割礼を新たに受けね
ばならない、という高いハードルがあった上に、改宗してからも、異邦人信徒
には若干の制限がありました。要するに、異邦人信徒は、二級信徒に過ぎなかっ
たのです。
 こうして、ユダヤ教の「教会」においては、ユダヤ人信徒が「強い人」であ
り、異邦人信徒が「弱い人」だったのです。

 もしもパウロが、使徒言行録に見られるエルサレム教会のように、キリスト
教の教会を、ユダヤ教の「教会」の延長線上に考えていたとするならば、キリ
スト教の教会内でも、ユダヤ人信徒が「強い人」、異邦人信徒が「弱い人」の
ままだったことでしょう。
 しかし、ユダヤ教の「教会」とキリスト教の教会では、「立場の逆転」が起
こっていた、ということをパウロは、9節後半から12節までの旧約聖書の引用
を通して述べています。

9節後半〜12節「『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなた
の名をほめ歌おう』と書いてある通りです。また『異邦人よ、主の民と共に喜
べ』と言われ、更に、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を
賛美せよ』と言われています。また、イザヤはこう言っています。『エッサイ
の根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをか
ける。』」

(この項、続く)



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