2014年03月30日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 48回「ローマの信徒への手紙15章1〜6節」
(12/6/17)(その2)
(承前)

 つまり、この人たちは、明らかに「信仰において弱い」のです。しかし、パ
ウロは「強い人」に対して、「強い人」とはあくまでも「信仰において強い人」
の意味ですが、「弱い人」を受け容れるのはもちろんのこと、「大切にしなさ
い」と言うのです。「批判しなさんな」、「軽蔑しなさんな」、「侮りなさん
な」というのが最初の勧めでした。そして第二の勧めは、「強い人」は「弱い
人」を裁かないのはもちろんのこと、「弱い人」が実行している生活習慣を、
それがいかにばかばかしく思えようとも、それに付き合いなさい、つまずかせ
ないために、という指示でした。
 ところが、パウロの「強い人」は「弱い人」を大切にするように、との勧め
は、そこに止まりません。本日の聖書テキストにてパウロは、「強い人」は
「弱い人」を喜ばせなさい、とまで言うのです。
 しかし、「弱い人」とは、あくまでも「信仰の弱い人」のことです。「信仰
の弱い人」が「信仰の強い人」を喜ばせようとするのならともかく、なぜ、
「信仰の強い人」が「信仰の弱い人」を喜ばせようとしなければならないので
しょうか。「十分な配慮はしたのだから、後は自分の努力で何とかしなさい」
という指導ではいけないのでしょうか。
 そこで、本日は、この疑問の解決を目指して、パウロの言わんとするところ
を掘り下げていきましょう。
 まず「喜ばせる」という言葉の意味です。パウロは「強い人」が「弱い人」
に何をすることを「喜ばせる」という言葉で言っているのでしょうか。

 「喜ばせる」と訳されている語の原語は、「アレスコー」という語です。も
ともとは「平和をもたらす」とか、「和解する」という意味の語でした。それ
が、そこから転じて、「人を喜ばす」という意味の語になったのです。「人を
喜ばす」とは、「人とよい関係を作りだす」という意味だったのです。
人との関係もそうですが、神との関係も良い関係でありたいものです。
 そこで、LXXでは、「信仰の道を歩むこと」を「神を喜ばせる」と表現し
たのです。
 使徒パウロも、このLXXの用法を受け継ぎました。「信仰の道を歩むこと」
を「神を喜ばせる」と表現しています。そして、これこそクリスチャンのある
べき生き方でした(ローマの信徒への手紙8:8など)。
 が、「人を喜ばす」こと、「人とよい関係を作りだす」ことについてはどう
でしょうか。残念ながら、新約聖書では高く評価されていません。問題点が多
いのです。その問題点の一つは、「人を喜ばす」が容易に「人に媚びる」関係
に陥る、ということです。
 極端な悪い例は、マルコ6:14以下にあります。ガリラヤの領主ヘロデの誕
生日に、ヘロデの再婚相手であるヘロディアの連れ子である少女は、踊りを
踊ってヘロデを喜ばせました(「アレスコー」の語が使われています)。しかし、
それは、ヘロディアの、ヘロデにバプテスマのヨハネを殺させようとする策略
の一部でした。すなわち、この「人を喜ばす」から、ヘロデの「欲しい物があ
れば何でも言いなさい」との言葉を引き出させ、バプテスマのヨハネを殺させ
たのです。「人を喜ばす」ことは、容易に悪の手段となります。
 さらに、「人を喜ばす」ことは、そして「神を喜ばせる」ことと対立するの
です。コリント一7:32〜33にて、パウロは結婚について次のように言ってい
ます。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を使います
が、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を使い、心が
二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊なる者になろうと
して、主のことに心を使いますが、結婚している女はどうすれば夫に喜ばれる
かと、世の事に心を使います。」パウロは、結婚を否定しているわけではあり
ませんが、人を喜ばすこと(「アレスコー」)によって、「神を喜ばせる」道、
信仰の道を歩むことがおろそかになる危険を指摘しているのです。
 それゆえ、クリスチャンは、「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心
を吟味される神に喜んでいただくために生きる(テサロニケ一2:4)」とまで
断言することとなるのです。そのパウロが、コリント一10:33とここでだけ、
自分は、そして「強い人」は、「人を喜ばす」べきである、と言うとは、これ
はいったいどうしたことなのでしょうか。

3〜4節「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたを
そしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。かつ
て書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでたち
は、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」

 「強い人」が「弱い人」を「喜ばせる」のは、キリストに倣っての業である、
とパウロは言います。しかし、一体、キリストの生涯のどの出来事に倣っての
業なのでしょうか。キリストの生涯について、フィリピの信徒への手紙
2:6〜9における、パウロによるキリストの生涯の要約から見ることといたし
ましょう。

(この項、続く)



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