2014年03月23日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 47回「ローマの信徒への手紙14章13〜23節」
(12/6/10)(その2)
(承前)

 旧約聖書で「汚れたもの」とされたものは、ものそのものが「汚れた」とさ
れるものです。ですから、だれも食べようとはしません。ところが、「弱い人」
が「汚れたもの」であるとして食べないものは、皆が、だれでもが食べるもの
でした。が、その一部が神に献げられたとします。すると、献げられたものは
「聖なるもの」で、残りは「汚れたもの」となるから、それは食べない、と言っ
ているのです。要するに、何でもかんでもが「汚れたもの」となりうるのです。
 ここまで来てしまうと、それはまさに「不自由」であり、「信仰の義による
自由」と齟齬をきたすこととなるのではないでしょうか。ところが、パウロは、
「強い人」に「弱い人」を指導するように、とのアドバイスをするかと思いき
や、「強い人」に、「弱い人」が「汚れている」と言うものは、何でもかんで
も、一緒に付き合って食べなさんな、と言うのです。肉やぶどう酒でさえ、
「弱い人」が「汚れている」と言い出したら、付き合って食べなさんな、と言
うのです。これは、一体どうしたことでしょうか。
 一つには、今の引用の中で述べられていたような兄弟愛の観点があるでしょ
う。「弱い人」もキリストの贖いによる救いの対象であることには変わりあり
ませんから、その兄弟をつまずかせるな、ということです。
 しかし、もっと深い理由が、22節以下に示されることとなります。

22〜23節「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていな
さい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、
確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていな
いことは、すべて罪なのです。」

 ここでパウロは、12:1〜2に立ち帰ります。「信仰によって義とされた者」
の生き方の基本、出発点でした。それは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生
けるいけにえ」として献げることでした。しかし、何を献げるかは、個人個人
によって、与えられたカリスマ(賜物)によって異なります。そして、それは、
神によって新しくされた「ヌース」によって判断されねばなりません。中身で
はなく、その判断が大切なのです。その判断を、パウロは、22節、23節で、こ
こでは「確信」と訳されてしまっていますが、「信仰」ないしは「信仰的決断」
と呼んだのです。そしてその「信仰的決断」を、その内容が何であれ、何より
も大切にすべきだ、というのが、パウロの立場です。それゆえ、「自分の決心
にやましさを感じない人」は、「幸いである」、神より祝福を受けるに違いな
い、と宣言したのです。
 この「信仰的決断」については、自分のそれだけではなく、兄弟のそれをも
大切にしなければなららないのではないでしょうか。もしも、兄弟によって、
自分の「信仰的決断」がゆるがせられるようなことがあったとしたら、大変で
す。
 23節の「疑う」と訳されている語(ディアクリノー)は、本来は「決断する」
という意味の語でした。LXXの時代までは、その意味で用いられてきました。
それが、新約聖書の時代になったら、「決断が揺らぐ」、「疑う」という意味
の語になってしまいました。ある人の「信仰的決断」が、この語と同じ運命を
たどってしまったら大変です。信仰そのものが揺らぎ、神との関係が壊れ、元
の木阿弥、罪の状態に戻ってしまいます。だから、その「信仰的決断」の内容
がいかに「ヘン」に思えても、「汚れたものは食べない」という決断ではあっ
ても、でも、その人の「信仰的決断」の尊重に最大限の配慮を払いなさいよ、
というのが、本日の聖書箇所でパウロが言いたいことの、最終的決断なのです。
 信仰的自由は、他者の信仰的自由を尊重するところにある、と言い換えるこ
とができるかもしれません。心して歩んでまいりましょう。

(この項、完)


第48回「ローマの信徒への手紙15章1〜6節」
(12/6/17)(その1)

1〜2節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の
満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの
向上に努めるべきです。」

 今まで2回にわたって、教会には「強い人」と「弱い人」とがおり、その
「強い人」と「弱い人」とがどのように折り合っていけるのか、特に、「強い
人」がどのように「弱い人」に相対すべきか、について学んできました。
 まずもって確認しておかなければならないことは、「弱い人」とは言っても、
日本語の「弱い」という語の語感から想像されるような、心や体において破れ
やすい、壊れやすい人のことではない、ということです。むしろ、体において
健康な人です。が、体において健康であるがゆえに、神に仕えるため、という
思いから来るのではありますが、律法に記されていないことまで自分に課す人
なのです。しかし、そのことによって、逆に自分の力に頼ることとなり、結果、
信仰が弱くなってしまう、そういう人のことなのです。

(この項、続く)



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