2014年03月16日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 47回「ローマの信徒への手紙14章13〜23節」
(12/6/10)(その1)

13節「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとな
るものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

 前回の続きです。先週、教会の中に「強い人」と「弱い人」がいることが明
らかとなりました。「弱い人」の方ですが、私たちが想像するような、心も体
も折れやすく、破れやすい、そういう人のことではありません。むしろ、体力
的には、人並み以上に健康な人と考えられます。が、健康であるがゆえに、自
分の力に頼ってしまう、そういう人のことです。キリストの恵みに与るために、
律法にないようなことまで、忠実に守ろうとしました。その守ろうとしたこと
は何か、と言えば、菜食主義と日めくりでした。
 一方、「強い人」とは、キリストに贖われた者は自由である、ということを
知っていて、菜食主義や日めくりにはとらわれない人のことを言います。しか
し、「強い人」と「弱い人」とで、どちらの人が「正しいか」と言えば、「強
い人」です。が、パウロは、だからと言って、「強い人」に「弱い人」を指導
するように、とは言いません。むしろ、「強い人」は「弱い人」を批判したり、
軽蔑したり、侮ったりするな、と言います。
 なぜでしょうか。「裁きの禁止」の観点からです。
そこで、今日のところですが、話はさらに進んでいきます。実は、「弱い人」
は、菜食主義と日めくりだけでなく、「汚れた食べ物」を避ける、ということ
までしていたことが明らかとなるのです。
 「汚れた食べ物」を避ける、という行為にはどのように対応したらよいので
しょうか。まずは、「汚れた食べ物」を避ける、とはどういうことなのか、
14〜21節に目を通していくことといたしましょう。

14〜21節「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知
り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだ
け汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなた
はもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりま
せん。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あな
たがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、
飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このよ
うにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、
平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のた
めに神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪
に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほ
か兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」

 おおよそ、どの宗教においても、人は神の前で、清く、正しくありたい、と
願うものであります。それゆえ、旧約宗教においても、人は、罪もそうですが、
汚れを避けたい、と願ったのです。レビ記10:10によれば、神の掟を守ることと
同時に、聖と俗、および清いものと汚れたものとを区別するように、すなわち、
汚れたものを避けるように、ということが要求されています。そしてそのあと、
11章から13章にかけて、避けるべき汚れた動物、出産の汚れを避けるように、
皮膚病の汚れを避けるように、ということが記されています。更に14章から15
章に欠けて、カビの汚れ、漏出による汚れについての記述があります。
 これらは、罪とは関係ありません。が、神の前では喜ばれない。そこで、
「清め」が必要とされ、「清め」の儀式が発達しました。
 このタブーは、ユダヤ教では「コウシャー・ダイエット」という形で、現代
も受け継がれています。
 が、キリスト教では、イエスが皮膚病の人に「あなたは清い」と宣言したの
を始まりとして、それまで、「汚れている」とされていた異邦人も「清い」と
宣言されました。そして異邦人教会が設立されたことにより、完全に乗り越え
られました。
 なのに、教会の中に、クリスチャンの中に、「この食べ物は汚れているから
食べない」とする人が現れてきた、というのは、一体どうしたことなのでしょ
うか。
 ところで、教会内の「弱い人」は、何を、「汚れている」として食べなかっ
たのでしょうか。
 レビ記11章には、旧約宗教において、何が「汚れたもの」とされて、食用が
禁止されていたか、が記されています。それによれば、@反芻するだけか、蹄
が分かれただけの動物。たとえば、らくだ、いのししなど。A水中の魚類の内、
ひれ、うろこのないもの。B鳥類の中で、わし、鷹など。C地上を這う爬虫類。
以上、4種です。
 が、「弱い人」が「汚れている」として食べなかったものは、これらのどれ
でもないし、どれとも関係ありませんでした。なぜならば、「弱い人」が「汚
れている」と考えているものは、旧約聖書で「汚れている」とされているもの
とは、「概念」が全く違っていたからです。
どのように「概念」が違っていたのでしょうか。

(この項、続く)



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