2014年03月09日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 46回「ローマの信徒への手紙14章1〜12節」
(12/6/3)(その2)
(承前)

 さて、そういう前提を踏まえて、14:1、2で言う「弱い人」とはどのような
人でしょうか。病気がちの人でしょうか。心に痛みを抱えている人でしょうか。
それとも健康な肉体を所持するがゆえに、かえって神に逆らう傾向のある人で
しょうか。ここでは明らかに、「健康な肉体を持ち、それがゆえにかえって神
に逆らう傾向を持つ人」のことなのです。私たちが最初にここ(14章)を読んだ
時の印象、予測と全く違うかもしれません。しかし、私たちは、この「弱い人」
の正しい定義づけをもって先へ進まねばならないのです。
 それでは、ここで言う「弱い人」のルーツはどこにあるのでしょうか。それ
は、意外にもユダヤ人にある、と考えられるのです。そして、ユダヤ人にして
クリスチャンになった人の中に「弱い人」が出て来てしまったのです。ユダヤ
人は、もともと神を畏れる民族であったはずですから、そのユダヤ人の中から、
ここで言う「弱い人」が出てくるなどと言うことは信じられないかも知れませ
ん。しかし、律法主義が現れたころから、何かがおかしくなってきました。律
法を守るには、特にきちんと守るには、体力が要ります。最初は、神に仕え、
律法を守るために、体力を養っていたかもしれません。しかし、その中に自分
の体力そのものを誇るようになっていきました。律法にない菜食主義や、日め
くりも守るようになって、そこまで実行している自分を、体力を誇るように
なっていくのです。そして、クリスチャンになっても、菜食主義や日めくりを、
つまり、自分の体力を誇ることを継続していったのです。これが、14節以降で
言う「弱い人」の実態です。「弱い人」と言っても、ちっとも弱くありません。
かえって、菜食主義や日めくりをしない人を、裁くのです。たぶん、「自分は
これこれのことをしているのに、あなたはこの程度のこともしない。だから駄
目なのだ」と、です。
 さて、この「弱い人」に相対する「強い人」、その「強い人」という名称は、
15:1まで出てきませんが、とはどのような人でしょうか。それは、体力勝負
に乗らない人、すなわち信仰による義は体力にはよらないことを知っている人、
菜食主義や日めくりはどうでもよい、ということを知っている人です。「信仰
の義」の観点から言えば、明らかに「強い人」が正しくて、「弱い人」が間
違っています。当然「強い人」は、「弱い人」の批判もし(1節)、軽蔑もする
でしょう(2節)。
 ところが、パウロは、「強い人」は「弱い人」の批判をするな(1節)、軽蔑
するな(2節)、に止まりませんで、「主に感謝すればいいではないか(6節)」
と、「弱い人」の立場を認めてやるように、とまで言うのです。これは一体ど
うしたことでしょうか。そして、パウロがこのような寛容を説く根拠は、7節
以下にあります。

7〜12節「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ
一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のため
に生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬ
にしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、
死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあな
たは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたした
ちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。
『主は言われる。
「わたしは生きている。
 すべてのひざはわたしの前にかがみ、
 すべての舌が神をほめたたえる」と。』
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることにな
るのです。」

 クリスチャンに求められる生き方、原則は、自分自身罪の中にありながら愛
されて、贖われて、そして今の自分がある、ということなのだから、たとえど
のようなカリスマを与えられたとしても、ただひたすらに、「偽りのない愛」
を貫くという、ただこの一事だけでありました(12:9、10)。ですから、教会内
で、明らかに間違いがある「弱い人」を目の当たりにしても、さらに、その人
が自分の間違いを棚に上げて、何と「裁く」という罪を犯してきたとしても、
それに対して、その人の間違いを洗いざらい調べ上げて追及する、などという
ことに血道をあげることなく、その人がより正しく、キリストの愛を受け容れ
ることができるように祈りつつ、隣人愛に励む、と言うのが、「強い人」の在
り方だ、ということです。それゆえ、パウロは、「強い人」が「弱い人」を批
判したり、軽蔑したりすることを禁じ、「弱い人」の立場を認めるように言う
のです。
 そしてさらにパウロが付け加えることは、神が終末の時に見られることは、
「どれだけ自分の正しさを主張したか」とか「どれだけ他人の間違いを暴露し
たか」などということではなく、どれだけ「偽りのない愛」を貫いたか、のみ
だ、ということです。それが、「強い人」が「弱い人」を愛さねばならない最
終根拠です。
 現実の教会は「強い人」と「弱い人」の混合体です。それにも拘わらず隣人
愛が貫かれた時のみ、神はそこにいましたもうのです。

(この項、完)



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