2014年02月23日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 45回「ローマの信徒への手紙13章8〜14節」
(12/5/20)(その2)
(承前)

 この部分は、パウロが特にユダヤ人クリスチャンに向けて語っているところ
です。
 ユダヤ教徒にとって、ということはパウロにとっても、と言うことですが、
律法は、それを守ることによって救いを得る手段でした。しかし、その時代は、
もっとも律法を守ることによって救いを得ることのできた人は一人もいません
でしたが、イエス・キリストと共に終わりを告げました(10章)。
 しかし、ユダヤ人にとって、律法は同時にこの世の法であり、罪を明らかに
する「リトマス試験紙」でもあります。「信仰によって義とされる」ユダヤ人
クリスチャンも、愛の名のゆえに、法としての律法を破ってはいけないし、罪
を犯してはならないのです。なぜなら、ユダヤ教の時代から、律法の全体は、
「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに要約される、と言われてきま
した。ですから、ユダヤ人クリスチャンにして、愛を実行する者は、律法に違
反する罪、悪を行わないはずなのです。
 だから、ユダヤ人クリスチャンは、「偽りのない愛を貫くことに集中しなさ
い」なのです。これはパウロの自分自身への戒めでもあったのではないでしょ
うか。
 次に、「あなたがた」という呼びかけをもって、ユダヤ人クリスチャンのみ
ならず、異邦人クリスチャンに、愛に集中し、愛の名のゆえに悪を行わないよ
うに勧められます。

11〜14節「更に、あなたがたは今がどんな時であるか、を知っています。あな
たがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ています。いまや、わたしたちが信
仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づい
た。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう。日中を歩
むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、
争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足さ
せようとして、肉に心をもちいてはなりません。」

 異邦人クリスチャンの場合には、ユダヤ人クリスチャンと違って、この世の
法にして、罪を明らかにする「リトマス試験紙」のような律法というものを持っ
ていませんから、容易に悪を行いがちです。しかし、ユダヤ人クリスチャンの
みならず、異邦人クリスチャンも、どちらも、「終末」という時を迎えなけれ
ばならないことは、共通しています。その時、律法という「リトマス試験紙」
を持っていたユダヤ人クリスチャンにとってはある程度対応可能ですが、持っ
ていなかった異邦人クリスチャンにとっては、突然に、「神の裁き」に基づい
て行いがチェックされることとなるでしょう。
 もちろん、「終末」がいつ来るか、はパウロにだってわかりはしません。し
かし、「洗礼を受けた時より近づいている」ことは確かです。ですから、「闇
の業」を脱ぐことが必要です。「闇の業」とは、ユダヤ人が律法の業によって
救われようとしていたことを言っている、と思われます。つまり、自分の力で
救いを得ようとはせず、光の武具、イエス・キリストを着ることが求められま
す。これはだれにでもできることです。神の裁きに、心して備えることが、異
邦人クリスチャンには特に強く求められます。
 13節で、異邦人クリスチャンが、愛の名の下に陥りやすい悪徳が、六つ列挙
されています。異邦人クリスチャンにとってこれらは「おなじみ」のものです。
酒宴と訳されている語は、もともと酒神バッカスなどの神々を祝う祝賀行事の
ことでした。異邦人クリスチャンも、愛の名の下に参加しそうです。酩酊は、
イスラエルにもありました。創世記9:21によれば、ノアは、洪水後、葡萄酒
を飲みすぎて酩酊し、家族の大顰蹙を買いました。異邦人クリスチャンならば、
もっとしばしばありそうです。
 淫乱と訳されている語は、そもそもは、「愛する者」同士のよき交わりを表
す語でした。しかし、よき交わりは、「愛の名の下に」しばしば道を外すもの
です。イスラエルにおいてもそうでしたから、異邦人クリスチャンにおいてを
や、です。好色と訳されている語は、ギリシアのセルゲーという町の名に由来
する語です。その町が放縦だった、と言い伝えられたがゆえに、この語が、
「好色」を意味するようになりました。異邦人クリスチャンにとって、誘惑は
身近にある、はまりやすい、ということです。
 争いと訳されている語は、本来労働を意味する語でした。労働者が陥りやす
い罪、という意味で用いられています。そしてねたみは、以前にも取り上げま
した。「熱心さ」を表す語でもあります。愛の熱情がねたみを生むのです。ユ
ダヤ人が陥りやすいかもしれません。しかし、異邦人クリスチャンにとっても、
クリスチャンであるがゆえに、陥りやすい罪と言えます。
 どうしたら、これらの罪に陥ることなく、「偽りのない愛」を貫き通すこと
ができるのでしょうか。パウロは、そのためには「品位ある」歩みをすること
だ、と言います。「品位ある」歩みとは、どのような歩みなのでしょうか。

(この項、続く)



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