2014年02月09日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 44回「ローマの信徒への手紙13章1〜7節」
(12/5/6)(その2)
(承前)

 旧約聖書、そしてユダヤ教の世界においては、この世界の主権は、あくまで
もこの世界を創造された神にあります。シラ書10:4に、「この世の主権は、
主の御手にある」と記されている通りです。それゆえ、この世において王たる
者は、たとえ異教世界の王といえども、世界の主権者である神から、権限を委
譲されていない限り、王としての権威を保つことはできないのです。この思想、
考え方は、ダニエル書に色濃く出ています。
 たとえば、ダニエル書4:14では、バビロンの王、つまり異教の王ネブカドネ
ツァルが見た夢として、「すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神
であり、この神は御名のままに、それをだれにでも与え、また、最も卑しい人
をその上に立てることもできるということを人間に知らせるためである」とい
うことが宣言されています。
 このLXXの思想は、新約聖書にそのまま受け継がれており、それゆえパウ
ロは、ここで、たとえ異教の世界の支配者ではあっても、神によって立てられ
たのではない権威はない、という大原則を述べたのです。
 ただし、この世の主権が、皆神を畏れているのか、という問題が次の問題と
して起こってきます。が、パウロは、その問題にはここでは触れていません。
それよりもここでは、その権力に相対するクリスチャンの姿勢を問題視してい
ます。たとえその権威に問題があったとしても、クリスチャンはその権威に一
定の意義を認め、また、認めるところから出発しなければいけない、と述べて
いるのです。しかし、実際には、クリスチャンは権威にどこまで、どの程度ま
で忠誠を尽くさねばならないのでしょうか。

2〜4節「従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は
自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行なう者にはそうでは
ないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを
願っている。それなら、善を行ないなさい。そうすれば、権威者から褒められ
るでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。
しかし、もし悪を行なえば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣
を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報
いるのです。」

 読者にいささかの戸惑いを起こさせるこの箇所は、コリントの教会において、
権威をないがしろにしていたクリスチャンが、実際に何を行い、何をどこまで
受け入れていたかを知ることなしには理解不可能です。少し長いのですが、
Tコリント5:1〜3を引用します。

1〜3節「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、
しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻を
わがものにしている、ということです。それにもかかわらず、あなたがたは高
ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除
外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても、霊ではそこに
いて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者をすでに裁いてしまっ
ています。」

 ここに記されているのは、コリント教会で行われていたことの一例にすぎな
いでしょう。要するに、この世でも戒められねばならないほどのことが、教会
の中で、キリストによる自由の名の下に行われ、しかもそれが、教会の中でも
許容されていた、ということなのです。
 この世の権威の定めた法には、もちろん限界があります。しかし、それでも、
法には、「最低の」倫理基準を示す、という意味もあることは確かです。たと
えば「殺すな」という法は、社会秩序を維持する限りにおいて、という限界が
あることも確かではありますが、それでも「せめて、殺人はするな」という意
味を持っていることも確かであります。よって、この世の法にもとる悪が行わ
れた場合、それは当然神の裁きにも耐えられないのではないでしょうか。ゆえ
に、その限りにおいて、あくまでもその限りにおいてですが、この世の裁きは
神の裁きと通じるのではないでしょうか。
 ローマの信徒への手紙13章3節で「裁き」と訳されている語ですが、「この
世の裁き」と「神の裁き」の両方の意味があります。パウロも両方の意味で用
いており、ここではこの世の裁きのことを言っている、と受け取れないことも
ありません。
 しかし、4節の「怒りをもって報いる」は、LXX以来、わずかの例外を除
いて、ほとんど専ら、神の終末における裁きの意味で用いられてきています。
パウロもその意味で用いたとしか考えられません。この世の権威が、神の終末
の裁きを担う、というのです。しかし、しかし、だからと言って、パウロは、
この世の権威による裁きがそのまま最後の審判である、と言っているわけでは
ありません。この世の最低の倫理基準にも悖る行為が行われた場合、この世の
権威の下で裁かれて当然であるし、まして、終末の裁きに堪えられるはずはあ
りません。だから、その意味で、この世の裁きは神の裁きに通じるのではない
でしょうか。

(この項、続く)



(C)2001-2014 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.