2014年01月26日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 43回「ローマの信徒への手紙12章9〜21節」
(12/4/29)(その2)
(承前)

 その用例があるのは、知恵の書5:18です。そしてそこには「主は正義の胸当
てを着け、偽りのない裁きの兜をかぶり」と記されています。「偽りのない裁
きの兜」とは何なのでしょうか。ここは、文脈について言えば、終末の時の審
判の一場面です。神がなさる終末の裁きに際し、神に従う人は永遠の命を与え
られますが(15節)、神に逆らう者は厳しい裁きを受ける、その裁きが「容赦な
い」裁きだ、ということを言っているのです。すなわち、「偽りのない」とは、
単に「嘘のない」という意味に止まらず、「情け容赦しない」という意味でも
あるのです。
 それでは、「偽りのない愛」すなわち「情け容赦しない愛」とは、どのよう
な愛のことなのでしょうか。
 パウロは、Uコリント6:6でも、「偽りのない愛」という表現を用いていま
す。そしてそこでは、それは神から与えられた武具である、とされています。
だとすると、パウロは、「偽りのない愛」という語によって、終末の「情け容
赦のない裁き」に耐えうるような、そういう徹底した愛、敵を愛するような愛
のことを言っているのだ、とも考えられます。果たしてそのとおりでありまし
て、「偽りのない愛」とは、終末の裁きにも耐えうるような、「敵を愛するよ
うな愛」のことを言っているのです。
 クリスチャンとは、キリストの「偽りのない愛」によって生かされ、しかも
その愛を受け止めた者のことなのですから、隣人に対しても、その愛を向ける
べき、いや向けて当然なのであります。
 まず、クリスチャン同士で試してみましょう。16節までは、第一義的には、
クリスチャン同士の交わりを想定しています。なぜなら、10節で2回、16節で
一回、「互いに」という言葉が出てくるからです。クリスチャン同士の間では、
注いだ愛が返されることを期待してもよいのです。ならば、実行はたやすいの
ではないでしょうか。
 とは言え、教会はそもそも異なる者がキリストにおいて一つとされた共同体
ですから、教会の中でも、実際に愛を貫くのは容易なことではありません。実
際に、教会の中に迫害者が起こることさえ想定されます。しかし、それでも愛
を貫くこと、これが、「偽りのない愛」、終末の容赦ない裁きにも耐えうる愛
なのです。
 ただ一点、11節の「主に仕えなさい」は、隣人愛について述べている前後の
文脈に合いません。ここに関しては、「ちょうど良いときに、(互いに)仕え
なさい」という「異読」があります。本文決定の原則からすると、むしろ後者
の方がオリジナルだ、とも考えられます。私たちは、後者の形で11節を受け止
めた方がよい、と思われます。
 結局、私たちが「偽りのない愛」を貫こうとしているかどうか、が問われて
いるのです。

 そして、17節以降においては、「偽りのない愛」を「すべての人」、境界外
の人にも貫くことが要求されることとなります。しかし、ここに新たな問題が
発生します。

17〜21節「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように
心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしな
さい。愛する人たち、自分で復習せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわた
しのすること、わたしが報復する』と書いてあります。『あなたの敵が飢えて
いたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に
積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

 「偽りのない愛」をすべての人に貫こうとしたとしても、「できれば、…す
べての人と平和に暮らしたい」と願ったとしても、愛の見返りは一切期待でき
ません。それどころか、いくら愛を注いだとしても、ますます敵意が帰ってく
る、という場合があるかもしれません。そのような時、クリスチャンでも復讐
を考えるでしょう。しかし、復讐してはいけません。復讐は神に任せ、ますま
す愛に励みなさい。……
 この箇所は以上のように受け取られてきました。しかし、本当の意味とは微
妙なずれがあります。その点をこれからお話ししてまいりましょう。

19節で「報復」と訳されている語、本来は「対価を支払う」「(働きに対して)
報いる」と言う意味の語でした。賃金の支払いにこの語が用いられてきました
(マタイによる福音書20:8)。あるいは、招待へのお返しの意味でもこの語が
用いられました(ルカによる福音書14:12など)。そして、善い行いや悪い行い
に対する報いの意味でもこの語は用いてこられました。
 しかし、善い行いや悪い行いに対する報いの意味でこの語が用いられる時、
その場合の主語は神で、しかもまず例外なく、「最後の審判の時の報い」を指
しています。LXXの用例は、一つを除いて、すべてが最後の審判を指してい
ます。パウロが19節で引用している申命記32:35もそうです。

(この項、続く)



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