2014年01月12日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 42回「ローマの信徒への手紙12章3〜8節」
(12/4/22)(その2)
(承前)

 パウロは、ユダヤ教の神殿礼拝を意識しつつ、それに対抗しつつ、クリス
チャンにおける礼拝においては、礼拝者が自分自身を人身御供として献げるべ
きことを主張しました。それは、ユダヤ教の神殿礼拝が、出エジプトの際の子
羊の犠牲に倣って行われるのに対し、クリスチャンにおける礼拝はキリストの
犠牲に倣って行われるべきであるがゆえに、とのことでした。
 が、犠牲として献げられる者自身はどのようにしたらよいのでしょうか。偶
像礼拝の場合と異なり、この礼拝はロゴスに基づく礼拝ですから、神の言葉が
ヌースに働きかけるところに従って奉仕することが求められるのです。
 次に、それでは、そのヌースに導かれた人、クリスチャンの日常生活はどの
ようであるべきなのか、という問題に入っていくこととなります。そこで、パ
ウロは教会を取り上げます。なぜならば、信仰による義が生かされた新しい歩
みは、神の国の教会によって担われるからです。教会の中で、クリスチャンは
どのように自分を位置づけ、どのように行動したらよいのでしょうか。

4〜5節「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立ってい
ても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、
キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 イスラエルにおいては、イスラエル民族が選びの民として、一つの教会でし
た。イエス・キリストによって神の国の教会が設立され、信仰によって義とさ
れた者がその一員とされたとき、民族の隔ては打ち破られ、「イエス・キリス
トの体」として一つとされたのです。
 が、なぜ教会は、イエス・キリストの「体」なのでしょうか。教会の成員は、
民族の違いを始めとして皆異なっています。その異なった者がキリストにあっ
て一つとされている点が、一つの「体」になぞられるからです。そして、一民
族ではなく、キリストの体なる教会こそが、神の国を先取りし、まだ完全には
神のものとなってはいないこの世において、キリストを証し、神の国を証する
のです。それゆえ教会に連なる者は、まず第一に、教会の中でそれぞれの役割
に仕えることによって、自分自身の「いけにえ」としての役割を果たしていく
ことが求められます。
 それでは、教会における各自の役割は、どのようにして定められるのでしょ
うか。

6〜8節「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を
持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の
賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める
人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心
に指導し。慈善を行う人は快く行いなさい。」

 イスラエルにおいては、「教会」における役割分担は部族単位で行われてい
ました。具体的には、レビ族の者が祭司を務め、あとの者は全て一般信徒でし
た。パウロはベニヤミン族の出ですから、律法の専門家ではあっても、一般信
徒です。それゆえ、イスラエルにおいては、家系によって定められた役割の中
で、「身分」に従って仕えることが求められたのです。
 神の国の神の民の教会においては、それぞれの役割はどのようにして定めら
れるのでしょうか。神の民の教会においては、役割は、家系によらず、恵みに
よって各人に与えられた賜物によって、各人の役割が定まるのです。これが、
神の国の教会にふさわしい原則です。それでは、「恵みによって定められた賜
物」とは何なのでしょうか。
 「賜物」と訳されている語の原語は「カリスマ」です。すでにローマの信徒
への手紙では、1:11、5:15、6:23、11:29に出てきました。ところが、この
語はLXXに用例がなく、新約聖書でも、コリントの信徒への手紙とローマの
信徒への手紙でだけしか用いられていない語なのです。意味の確定が困難です。
しかし、パウロはこの語を「恵みの賜物」という使い方で、ここと5:15で用
いています。また、6:23と11:29では、「神の賜物」という用い方で用いてい
ます。そこから推測するに、賜物とは、神の恵みによって各人に与えられた
「能力」のことである、と言えるのではないでしょうか。教会においては、家
系ではなく、この賜物(カリスマ)によって、各自の役割分担が決まるのです。
 ところが、パウロが、「恵みの賜物」を「霊の賜物」と呼ぶことがあるので
す(コリントの信徒への手紙一12章)。そこから新たな問題が生じます。「霊の
賜物」とは何でしょうか。それは、コリントの信徒への手紙一12章によれば、
異言を語ったり、恍惚状態になって預言を語ったりする能力のことです。とこ
ろが、この「霊の賜物」は「力」がありますがゆえに、コリント教会では、こ
の「霊の賜物」を所有するとされた人が、教会の中で特権階級であることを主
張するようになってきてしまったのです。どうしたらよいのでしょうか。

(この項、続く)



(C)2001-2014 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.