2013年12月29日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 41回「ローマの信徒への手紙12章1〜2節A」
(12/4/15)(その1)

1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによって、あなたがたに勧めま
す。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこ
そ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

 講解説教第40回の続きです。信仰によって義とされた者の守る礼拝、すなわ
ち神の国の教会の礼拝はどうあるべきか、がテーマです。
 が、パウロはこのテーマを、ユダヤ教の神殿礼拝に基づいて考えています。
そこで、私たちもユダヤ教の神殿礼拝について考察していくことといたしま
しょう。
 神殿礼拝の中心は供犠、すなわち犠牲を献げる儀式です。その供犠ですが、
どの宗教にも存在し、宗教史的には、「人が最も大切にしているものを神に献
げることにより、神との間をとりもつ」という意味合いを持つと考えられてい
ます。その最大にして究極のものは、人身御供(ひとみごくう)です。イスラエ
ル人の宗教においても、それは旧約以前の話ですが、供犠は人身御供によって
行われていたかもしれません。なぜなら、アブラハムによるイサクの奉献の物
語に、その「名残」が見られるからです。
 しかし、イスラエルにおいて神殿礼拝が整えられたペルシャ時代、すなわち
捕囚期後の時代、そこにはすでに人身御供はなく、供犠はすべて、神とイスラ
エルとの契約に根拠を置くものと考えられるようになっていました。すなわち、
出エジプトの時、主が子羊の犠牲をもって御業をなされたことを思い起こすこ
とが、そもそもの供犠の始まりだ、と考えるのです。
 パウロも、礼拝の基礎が新しい契約、すなわち神がキリストの犠牲をもって
御業をなされたことを思い起こすことにある、と考える点では、旧約宗教と相
通じています。しかし、供犠に関しては、「人身御供に帰れ」と言っているの
です。これは驚くべきことです。
 しかし、パウロは「人身御供に帰れ」と言っているからと言って、「野蛮に
帰れ」と言っているわけではありません。礼拝においてキリストの犠牲を覚え、
礼拝者もはらわた痛む思いをもって隣人愛に仕えていく自らを差し出す、その
ことを「人身御供」、「自分自身をいけにえとして献げる」という表現におい
て言っているのです。
 と、ここまでが前回論じたところでして、今回は、次に、このキリスト教に
おける「人身御供礼拝」を、「あなたがたのなすべき礼拝」ないしは「霊的な
礼拝」と呼んでいるところから話を続けていきましょう。
 さて、「霊的な礼拝(協会訳)」ないしは「あなたがたのなすべき礼拝(新共同
訳)」と訳されている部分、原語では「ロギケー・ラトレイア」、すなわち「ロ
ゴスに基づいた礼拝」と記されています。「ロゴスに基づいた礼拝」とは何な
のでしょうか。
 が、その前に、そもそも「礼拝」という言葉で、パウロがどのようなものを
イメージしているのか、を探っておきたい、と思います。
 新約聖書ギリシア語では、「礼拝する」を表す語として、一般には「プロス
キュネオー」という語が用いられています。この語はもともとは「腰をかがめ
る」とか「ひれ伏す」という意味あいを持った語でして、礼拝が「神を拝む」
行為であることをよく表しています。
 ところが、パウロは「礼拝する」を表現するのに、「プロスキュネオー」と
いう語を一切使わないのです。代わりに、「ラトレイア」という語を使います。
ここでもそうです。ところが、この「ラトレイア」という語は、問題の多い、
要注意の語なのです。もともとは「奴隷として仕える」という意味の語でした。
そしてそれが宗教に適用されると、「儀式(儀礼)に仕える」という意味になり
ました。
 「儀式(儀礼)に仕える」と言うと、旧約宗教においては「祭司の務め」が思
い起こされるかもしれません。しかし「祭司の務め」に関しては、「レイトゥ
ルゲオー」という別の語がありまして、ヘブライ人への手紙ではしばしば用い
られています。一方、「ラトレイア」には「祭司の務め」の意味はほとんどな
く、聖書に関する限りでは全くなく、神への儀礼であれ、偶像への儀礼であれ、
「その儀礼に奴隷のごとく仕える」という意味のみ持つのです。
 パウロは、「礼拝する」を表すのに、なぜこのような語を用いたのでしょう
か。「礼拝においては、ただ奴隷のごとく仕えよ」ということを主張したいの
でしょうか。
 ここで、私たちは、LXXにおいてわずか7回しかない「ラトレイア」の使
用例において、その中3回が、出エジプト記12章、13章に集中していることに
注目したい、と思います。出エジプト記12章、13章は過越祭、除酵祭の規定が
定められているところです。つまり、ここでは「ラトレイア」は、「過越祭、
除酵祭の規定を規定通りに守ること」を意味しているのです。

(この項、続く)



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