2013年12月22日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
40回「ローマの信徒への手紙12章1〜2節」
(12/3/25)(その2)
(承前)
「神の憐れみ」と聞いて私たちが真っ先に思い起こすのが、 マルコ1:41に
記された、イエスの憐れみです。マルコ1:40以下によると、思い皮膚病を患っ
ている人がイエスの下に来ました。彼が「御心ならば、わたしを清くすること
がお出来になります」と申し上げたところ、イエスが深く憐れまれて、その人
に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。すると、その人が癒された、
という物語です。
マルコ1:41で、「憐れむ」と訳されている語の原語は「スプラングクニゾ
マイ」という語です。この語は、もともとは「はらわたが痛む」という意味を
持つ語です。つまり、イエスは「はらわたが痛くなるような思いをもって、
(実際にお腹が痛くなられたかもしれませんが、)その人を憐れんで、そして癒
された」、というのが、この物語の伝えるメッセージです。
実際、イエスはご自身を痛めつけられて、十字架に架かり、自らを犠牲とし
て、人々を愛されました。結果、私たちは、義とされました。これが、キリス
トの出来事です。
だから、もし、ここ、ローマ12:1で、「スプラングクニゾマイ」という語が
使われていれば、「神の憐れみによって」という表現は、「キリストの出来事
によって示された神の憐れみによって」という意味になるはずです。
ところが、ここ12:1で、パウロは「スプラングクニゾマイ」という語を使っ
てはいません。代わりに「オイクティルモス」、動詞形は「オイクティロー」
ないしは「オイクテイロー」という語を使っているのです。「オイクティルモ
ス」には、「同情」という意味はありますが、「はらわたが痛む」という意味
はありません。だとすると、ここは「神の御情けに頼って」という意味になる
のではないでしょうか。パウロはここで、「神の御情けに頼って、礼拝を守り
なさい」と言っているのでしょうか。
違うのです。パウロはここで明らかにキリストの出来事を意識しているので
す。「オイクティルモス」という語についてよく調べてみますと、この語は、
LXXで、ヘブライ語の「憐れみ」という意味の語をギリシア語に訳すときに
用いられている語でした。
ヘブライ語聖書の中で、「憐れみ」を表す語はいくつかあるのですが、その
中で代表的なものは「ラカミーム」という語です。「ラカミーム」は「レケム
(子宮)」を語源とする語です。旧約聖書ヘブライ語でも、「憐れみ」とは、
「レケム(子宮)を痛める思いをもって相手を思いやること」だったのです。ギ
リシア語に訳すとき、「オイクティルモス」よりも、「スプラングクニゾマイ」
の方が適切な訳語でした。しかし、LXXの訳者が「スプラングクニゾマイ」
という語を知らなかったのか、あるいは、その時代にはこの語がなかったと考
えられます。LXXの旧約聖書本文では「スプラングクニゾマイ」の語は、ど
こにも出てきません。そこで、不十分を承知で、「オイクティルモス」を「ラ
カミーム」の訳語にあてたのではないでしょうか。ゆえに、「オイクティルモ
ス」という語には、聖書では、「ラカミーム」の意味がかぶさっていたのです。
よって、ローマ12:1の「神の憐れみによって」は、「レケム(子宮)を痛める
ほどの痛みをもって憐れんでくださった、神の憐れみに基づいて」、すなわち、
「イエス・キリストの十字架によって示された神の憐れみによって」という意
味になるのです。
それでは、具体的な礼拝の守り方については、パウロは、どのような指示を
出しているのでしょうか。
1節後半〜2節「自分の体を神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして献げ
なさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣っ
てはいけません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心
であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また、完全なことであるかをわきま
えるようになりなさい。」
二つの大切な点があります。第一は、精神主義化された神殿礼拝として、何
を犠牲として献げるか、です。ユダヤ教では、心そして魂を献げるように勧め
られていました。それに対して、パウロは「あなたがたの体を献げなさい」と
言います。だとすると、それは精神主義化に反するのではないでしょうか。
そうではありません。キリストがご自身を献げて、人々を愛されたように、
私たちクリスチャンも、「レケム(子宮)が痛む思いをもって」隣人を愛するた
めに、自分自身のからだを献げなさい、という意味なのです。神の国の教会に
おいては、礼拝は奉仕の出発点なのです。
もう一つの大切な点については、次回礼拝において、あらためて取り上げさ
せていただくことといたしましょう。
私たちは、「神の国の教会」に連ならせていただいた者です。からだを献げ
て、神の憐れみを受け止めていくべきではないでしょうか。
(この項、完)
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