2013年12月15日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

1 節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによって、あなたがたに勧めま
す。」

 今までパウロは、イスラエルの救いについて論じてきました。非常に大きく
困難な問題です。しかしそれは、神の、全人類を救うという、もっと大きなご
計画においては、一つの問題にしかすぎません。イスラエルでさえ、イエス・
キリストにつまずき、キリストに従う者たちを意図的に迫害しているイスラエ
ルさえ、神の救いのご計画からは、決して漏れてはいない、ということです。
 そこで次に、神の救いのご計画の中にあって、すでに神の国の教会の一員と
されているという恵みをいただいているクリスチャンはどのように生きたらよ
いか、という問題に入っていきます。どのような生き方が求められているので
しょうか。とは言え、神の国の教会の出現とは言っても、地上に突然降って湧
いたようにして神の国の教会が出現したわけではありません。神のイスラエル
の選び、という神の国のテストケースを経て、イエス・キリストの出来事があ
り、そこで初めて、神の国の形成があるわけですから、神の国の教会に連なる
個人の生き方についても、パウロにおいては当然ユダヤ教時代との対比におい
て捉えられていくこととなります。
 そこで、神の国の教会に連らならせられた個人の生き方の問題として、真っ
先に取り上げられなければならない問題は何でしょうか。それは礼拝の問題で
す。パウロも、そのことを踏まえ、この重要な問題を、クリスチャン個人の生
き方を考えるにあたって、真っ先に、しかも2つの節で、集中的に取り上げる
こととなりました。今日は、神の国の教会の礼拝の在り方、また、そこでの個
人の礼拝の守り方がテーマです。

 さて、そもそもユダヤ教においては、神殿礼拝と律法の遵守とが、信仰生活
を支えていく二本柱でした。そして、神殿礼拝は、供犠、犠牲の動物を献げる
こと、から成立していました。これは、一般宗教のように、「神は犠牲を求め
られる」という観念から出発したものではなく、ユダヤ教においては、出エジ
プト記の故事にその起源を置いています。すなわち、出エジプトの際、屠られ
た子羊の犠牲をもって、神はそのみ業を示されたのです。
 神殿礼拝がユダヤ教において、そしてユダヤの信仰生活において、いかに重
要な位置を占めていたかは、以下の二つのエピソードからも明らかです。すな
わち、捕囚から帰還後、イスラエルの「残りの者」が真っ先に着手したのが神
殿の再建工事であったこと、また、アンティオコス・エピファネスの神殿冒涜
がユダヤ人の激しい抵抗を生んだこと、です。
 しかし、イスラエルがこれだけ大切にしてきた神殿礼拝ですが、A.D.70年の
神殿崩壊を待つまでもなく、そしてA.D.70年の神殿崩壊後は決定的に、精神主
義化されることとなりました。一つの要因はディアスポラ(離散)のユダヤ人が
増えたことです。イスラエルの成人男子にとっては、年2回のエルサレム巡礼、
すなわち神殿礼拝は義務でした(出エジプト記23:14-19)。しかし実際には、ユ
ダヤ人の居住地に建てられたシナゴグ(会堂)での礼拝が信仰生活の中心になっ
てきます。そしてシナゴグでの礼拝ではトーラー(律法)の朗読が中心でした。
ユダヤ教思想の面でも、ファリサイ派が出現しました。ファリサイ派は、信仰
生活において、何よりも律法遵守が大切だ、と考えます。このような流れの中
で、A.D.70年の神殿崩壊が起こり、神殿そのものが失われてしまいました。そ
れ以後のユダヤ教は、シナゴグでの礼拝と律法遵守に支えられて今日に至って
いるのです。
 しかし、それでは神殿礼拝はユダヤ教の中からすっかり消え去ってしまった
のか、というとそうではなく、逆に精神主義化されて、その理念は永遠に残る
こととなりました。たとえば、ヘレニズム時代のあるユダヤ教の文書の中で、
既に次のようなことが言われています。
 「名状しがたく、言い表しにくい沈黙においてのみ呼ばれる汝(主)よ! 何
時に差し出された魂と心からなる、理念的で純粋な供え物をお受けください。」
 魂と心こそ、精神の永遠の神殿礼拝での供え物としてふさわしい、という訳
です。
 さて、ファリサイ派出身のパウロは、キリストとの出会いを通して、神によ
る義にめざめ、律法主義、律法を守ることによって義を獲得しようとする道を
捨てました。それでは、パウロは、ユダヤ教信仰のもう一つの柱、神殿礼拝に
ついては、どのように考えていたのでしょうか。これについては、神殿礼拝を
一切捨てる、ということではなく、ユダヤ教とは違った方向で、精神主義化さ
せることとなったのです。
 そこで、パウロが礼拝を考える上で基本的な立脚点とした視点が「神の憐れ
みによって(礼拝を守る)」でした。「神の憐れみによって」とはどういうこと
なのでしょうか。

(この項、続く)



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