2013年12月08日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

〔ロー マの信徒への手紙講解説教〕
第39回「ローマの信徒への手紙11章33〜36節」
(12/3/18)(その2)
(承前)

 以上で表面的な意味は明らかとなったのですが、だとすると、人々は、神を
知ることも、その企てを推し量ることも、何をされるかもわからない、という
ことになってしまうのではないでしょうか。もし神がそのようなお方であられ
るのなら、イスラエルの救いはもちろん、全人類の救いを期待することなど、
無駄なのではないでしょうか。パウロはなぜここに、このような場違いの頌栄
を入れたのでしょうか。が、実は、神はそのようなお方であられるわけでもな
いし、頌栄も場違いではないのです。これから、そのことを明らかにしてまい
りましょう。
 そもそも、どの宗教においても、祈り、すなわち神の加護の願い求めは、信
仰生活の基本的要素です。そして、祈りは、個人の信仰生活に根差しつつも、
宗教全体を支えるものですから、どの宗教においても、個人的な祈願と、そし
て、公の、礼拝の場における祈祷とがあるのです。
 旧約聖書の宗教においても全く同じです。祈りは、信仰生活の基本であると
同時に、礼拝で祈られるものであり、双方共に、神とイスラエルとの関係を支
えるものでした。
 さて、旧約聖書における個人的な祈りの典型は、ネヘミヤ記9:6〜37にある、
と言われています。これは、バビロン捕囚から帰還した人が献げた祈りです。
そこには、旧約聖書における祈りの四要素がすべて含まれています。すなわち
@罪の告白、A神の裁きの正しさの自覚、B歴史における神の憐れみの振り返
り、C今、神の憐れみを求めること、の以上四つです。@については、バビロ
ン捕囚に際しての罪の告白があります。Aについては、神の裁きの正しさが触
れられています。Bについては、出エジプトの出来事の時、今回と同じことが
起こったこと、すなわち、民が「不平を言う」という罪を犯したけれども、そ
れでも神は憐れんでくださったこと、が振り返られます。Cについては、その
同じ神の憐れみが、今、エルサレムの再建にあたる「我々」に与えられるよう
にとの願いです。
 そして、このような個人的な祈りが発展して、公の礼拝において祈られた祈
り、「詩編」に発展していったのです。1930年にモーヴィンケルという旧約学
者が明らかにしたことですが、詩編には様々な類型がありますが、必ず「頌栄」
で締めくくられたのです。
 さて、新約聖書の時代、初代教会ではどのような祈りが祈られたのでしょう
か。新約聖書においては、神の憐れみの出来事は、出エジプトと共に、いや、
出エジプトを超えて、イエス・キリストの出来事として示されました。その点
は旧約聖書と異なります。が、祈りの型について言えば、旧約聖書の祈りの型
をそのまま継承して祈られたのです。
 パウロは、初代教会の中でもとりわけ旧約聖書の祈りの型に熟知していたは
ずです。だとすると、パウロは、どのような位置づけ、そして意味合いをもっ
て、ここに、このような頌栄を添えたのでしょうか。それは、9〜11章全体が、
実はパウロの祈りであって、パウロはそこに、最後に頌栄を添えた、というこ
となのではないでしょうか。9〜11章には、実は祈りの4要素が含まれています。
@罪の告白―神に選ばれたイスラエルが律法の義に走り、イエス・キリストに
つまずいたこと。A神の裁きの正しさ―今、イスラエルが棄てられていること。
それは、神の裁きによるものであること。B神の憐れみの歴史の回顧―イエス・
キリストの出来事により、未だ神を知らなかった異邦人が「信仰の義」を得た
こと。C憐みの求め―そのような、神に見捨てられたイスラエルにも、神の憐
れみを求める。以上です。
 このように、振り返って見てくると、33〜35節の頌栄は、何を考え、何をす
るかわからない神への畏れを表明しているのではなく、罪を犯し、イエス・キ
リストにつまずき、しかも未だにイエス・キリストを否定し続けているイスラ
エルをも、救いに入れることができる、そのような測り知れないご意思と力と
を持った神への賛美であったのです。
 神の愛は、それほどに大きな愛なのです。その愛は私たちにも向けられてい
ます。私たちが「それほどの愛」を受け止めることができるよう、36節をもっ
て、本日の御言葉の取り次ぎのしめくくりと致しましょう。

36節「すべてのものは、神から出て、神において保たれ、神に向かっているの
です。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。」




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