2013年12月08日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 39回「ローマの信徒への手紙11章33〜36節」
(12/3/18)(その1)

33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」

 いよいよ、9〜11章の最後の部分です。9〜11章は、イスラエルの選びが
テーマでした。
 振り返ってみるに、最初に、「選び」とは言っても、様々な選びがあること
が、サラの事例、ヤコブとエサウの事例、そしてファラオの事例をもって示さ
れました。次に、イスラエルの選びそのものについてですが、これについては、
イスラエルの選びは、「怒りの器」としての選びであったのではないか、との
問いが投げかけられます。なぜなら、イスラエルは律法の義に走り、イエス・
キリストにつまずいたからです。そして、そのつまずきにおいて、神の憐れみ
は異邦人に及んだからです。
 10章では、すでにふれられた「信仰の義」が繰り返し述べられます。が、こ
こでの強調点は、異邦人への憐れみが、イスラエル・ユダヤ人のつまずきと表
裏一体になっている、ということです。
 11章では、「それでは、取り残されたイスラエルはどうなるのか」という問
題に入っていきます。その答えの第一は、「神は残りの者を用意していてくだ
さる」ということです。そして第二は、「それでもイエス・キリストを拒否し、
決して信じようとはしない」イスラエルはどうなるのか、というテーマです。
―実は、9〜11章でパウロが最も取り上げたかったテーマがこのテーマなので
す。その答えについてパウロは、「異邦人がすべて救われた後に、イスラエル
もすべて救われる」という歴史哲学、それはパウロにとっては神の摂理、を披
歴いたします。こうして、全人類が救われることとなるのです。(32節)
 しかしはたして、そのことは将来、本当に実現するのでしょうか。しかし、
パウロはユダヤ教の黙示文学者のように、夢、幻を根拠に自分の哲学を語って
いるわけではありません。パウロの黙示は、キリストの十字架の出来事に根拠
があります。今まで、神を知らず、神を畏れもしなかった異邦人、不敬虔の極
みである異邦人に、十字架の贖いによって、「信仰の義」による救いへの道が
開かれました。律法による義に囚われて、自分では義を求めているつもりになっ
てはいるが、実は「信仰の義」への道が閉ざされていたユダヤ人には、イエス
・キリストにつまずくことによって、逆に己の不敬虔さが暴露され、信仰の義
への道が開かれることとなったのです。ゆえに、パウロの哲学は、キリストの
十字架ゆえに、将来の確かな出来事なのです。
 よって、パウロは「神は全ての人を憐れむ」という信仰告白をもって9〜11
章を締めくくりました。そして、その9〜11章のテーマにふさわしい頌栄を、
締めくくりのしめくくりとして添えたのです。本日は、この頌栄がテーマです。
はたして、パウロは、この頌栄をもって、神の何を、どのように賛美している
のでしょうか。

33〜35節「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。だれが、神の定めを
究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相続相手であっ
たであろうか。
だれがまず、主に与えて、その救いを受けるであろうか。』」

 まず最初に、この頌栄の意味を確定いたしましょう。
 このローマの信徒への手紙11:33〜35は、典型的な3部構成の頌栄としてよく
知られています。賛美されているのは、33節前半にあるごとく、@神の富、
A神の知恵、B神の知識です。そのそれぞれが、人の思いをはるかに超えて、
大きいものであることが賛美されます。その賛美本体は、本日の旧約書、イザ
ヤ書40:12〜14に従って、先ほどあげた賛美項目@ABの逆順を辿ることとな
ります。
 まず、33節後半、神の知識についてです。イザヤ書40:12で「手のひらで海の
水を測る」とか、「手の幅をもって天を測る」とか「地の塵を升で量る」とか
「山々をハカリに懸ける」とか「丘を天びんにかける」といったたとえで示し
ているごとく、主の知識は測り知れないほど多いのです。ゆえに、人は神を知
ることはできない、ということです。
 第二の問題、34節の知恵の問題に入っていきます。イザヤ書40:13で、「主の
霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか、という表現
方法で述べられているごとく、神が何をお考えになっておられるか、そして神
が何を意思しておられるのか、だれにもわからないということです。
 そして最後に第一の問題、神の富の問題です。35節はイザヤ書40:14とはか
なり離れています。前節、前々節に続き、神は無限大の知識と、測り知ること
のできない御心をお持ちでいらっしゃることに加えて、無限大に豊かな方であ
られるということです。ですから、何でもお出来になられる。と同時に、何を
なされるのか全く分からない、ということでもあります。

(この項、続く)



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