2013年11月24日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 38回「ローマの信徒への手紙11章25〜32節」
(12/3/11)(その2)
 (承前)

25節後半〜27節「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異
邦人全体が救いに達するまでであり、こうして、次のように書いてある通りで
す。
『救い主がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、私が彼
らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。』」

 その内容は以下のとおりです。「一部のイスラエルがかたくなになって、異
邦人が救われている」とは、今の事態です。が、それは今だけのことであって、
やがて異邦人全体に救いが行き届いた暁には、全イスラエルが救われる、とい
うものです。
 全イスラエルが救われる、とは確かに結構なことです。が、途中はともかく、
最後はイスラエル(ユダヤ人)が救われる、となると、結局はユダヤ教と同じな
のではないでしょうか。引用されている聖書、イザヤ書59:20と27:9も、もと
もとはイスラエルだけの救いを言っているものです。総体として、異邦人の救
いと言っても、それはイスラエルの救いのための手段とされてしまっているの
ではないでしょうか。さまざまな疑問がわき起こってまいります。
 そこで、パウロは、パウロの言う神秘が、ユダヤ教の言う神秘と似ても似つ
かないものであることを示すために、28〜32節を付け加えることとなりました。

28〜32節「福音について言えば、イスラエルは、あなたがたのために神に敵対
していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのおかげで神に愛されてい
ます。神の賜物と招きとは、取り消されないものなのです。あなたがたは、か
つては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
それと同じように、彼らも、今はあなたがたの受けた憐れみによって不従順に
なっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神は全
ての人を不従順の状態に閉じ込めましたが、それは、すべての人を憐れむため
だったのです。」

 パウロの言うところの神秘は、ユダヤ教の黙示文学者のような、自分中心の
夢想ではありません。すでに起こったキリストの出来事の延長線上にある出来
事として示されたことです。要点は、イスラエルの不従順のゆえにイスラエル
の救いがある、ということでした。これは一体どういうことなのでしょうか。
 そもそも、「不従順」という語は名詞、形容詞、動詞すべてを含めてローマ
の信徒への手紙に七回登場します。そもそもこの語(「アペイセオー」:動詞)は、
具体的に「反抗する」という意味ですので、1:30では「親に反抗する」という
意味で使われていますし、15:31では、キリスト教に反対するグループを指す言
葉として、「不信の者たち」という意味で使われています。そしてここ、11:28
〜32では、神に反抗する者を指す言葉として、「不従順」という意味で5回使
われています。神に反抗する者とはどういう者でしょうか。たとえ具体的な反
抗行為はなかったとしても、神の言葉に従わない者のことを言います。不敬虔、
神にちっとも畏れを抱かない者のことを言います。
 異邦人はかつて、神を知らずして、「神などいるものか」と考える不敬虔な
者でした。しかし、神は、その神なき姿をひどく憐れまれて、イエス・キリス
トの十字架の贖いによって義としてくださいました。それゆえ、その贖いの恵
みを信仰によって受け止める者は、救いに与り、神の国の教会の一員とされた
のです。
 しかし、イスラエルはどうでしょうか。イスラエルは、自分たちが不敬虔、
「神を畏れぬ者」であるなどとは、思ってもいないことでしょう。「自分たち
ほど敬虔な民はいない」と豪語していることでしょう。しかし、イエス・キリ
ストにつまずきました。つまずくことによって、本当は、不敬虔であり、「神
を畏れぬ者」などではない、ということを暴露してしまったのです。多くの者
は、それでも「自分たちは敬虔だ」と言い張っているかもしれません。しかし
このつまずきを真に受け止める者には、十字架の贖いによる義、信仰による義
を受け止めるチャンスがめぐってくるのです。パウロの語っているのは、「神
の国の神秘」に基づいた、この神秘なのです。イスラエルの選びには、そもそ
もこの神秘が秘められていたのです。10:21に引用された詩編65編の著者には、
このイスラエルの神秘がほのめかされていたのかもしれません。
 さて、とは言え、現代のユダヤ教学者の中にも、このローマの信徒への手紙
11:25〜32を根拠として、「結局、パウロはユダヤ教徒である」と断ずる人もい
ます。が、パウロは、ユダヤ人だけは、異邦人と違って、自動的に救いに与る、
と言っているわけでは決してありません。ユダヤ人がイエス・キリストにつま
ずいたということ、これは多くのユダヤ人にとってはつまずきどころか歯牙に
もかけない出来事だったのかもしれませんが、この出来事をユダヤ人の歴史上
最大の汚点として認めるときに、全イスラエルの救いが達成する、というのが
パウロの歴史哲学であるように思われるのです。
 私たちも、神の壮大な救いのご計画の中に入れられていることを深く覚えた
いものです。

(この項、完)



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