2013年11月10日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
37回「ローマの信徒への手紙11章11〜24節」
(12/3/4)(その2)
(承前)
だとすると、この神の愛は容易にねたみにひっくり返ります。出エジプト記
20:5、十戒の第2戒において、神は「わたしは熱情の神(協会訳は「ねたむ
神」)であるから、わたしを否む者(偶像を礼拝する者)には、父祖の罪を子
孫三代、四代まで問う」と言われるのです。
さてイスラエルですが、神の「キンアー」に対しては、「キンアー」で答え
ようとしました。律法主義者の律法に対する熱心さは、その一つの表れです。
律法を必死に守り、そして律法以外は絶対にダメなのです。「キンアー」は、
ギリシア語では「ゼーロス」です。パウロは10:2で、イスラエル、ユダヤ人
の律法に対する熱心さを、「ゼーロス」という語で表現しました。しかし、そ
の「ゼーロス」が、神を知るという目的からすると、見当はずれだったのです。
しかし、神の「キンアー」(「ゼーロス」)に対して「キンアー」(「ゼー
ロス」)で答えようという姿勢自体が間違っていたわけではありません。だと
したら、イスラエルがキリストにつまずいてしまったとしても、実際キリスト
を通してみ業がなされ、異邦人が信仰によってこぞって救われている現実を目
の当たりにしたならば、ユダヤ人も「キンアー」(「ゼーロス」)を「信仰の
義の獲得」に向けてほしい。ユダヤ人がそのようになってほしい、というのが、
パウロの願いです。そして、今、パウロがイスラエルに持ってほしい、と願っ
ているのは、今まで以上の「キンアー」(「ゼーロス」)です。そこでパウロ
は、翻訳すると、どうしても同じ「熱情、ねたみ」になってしまうのですが、
LXXから「パラゼーロス(熱情以上の熱情、ねたみ以上のねたみ)」という
語を引用して、ユダヤ人にぜひそれを持ってほしい、まさに熱望しているので
す。それで、この語の「強さ」を表すために、翻訳としては、「奮起」よりも
「ねたみ」の方がよい、と思われるのです。
イスラエルが神に選ばれた、という原点は、かえがたい大切さを持っていま
す。イスラエルは、そこに復帰すべきなのです。
次に「接ぎ木理論」です。
16〜24節「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖
なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリー
ブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるよう
になったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇った
ところで、あなたがを根を支えているのではなく、根があなたを支えているの
です。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるた
めだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折
り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなり
ません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれ
ば、おそらくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさ
を考えなさい。倒れた者たちに対しては、厳しさがあり、神の慈しみにとどま
る限り、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あな
たも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木さ
れるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もし
あなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反し
て、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとしたら、まして、元からこ
のオリーブの木についていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されるこ
とでしょう。」
ぶどう園のたとえ(イザヤ書5章)や、ブドウの木のたとえ(ヨハネによる
福音書15章)など、聖書には「木のたとえ」が多く用いられていますので、
「接ぎ木のたとえ」も聖書のどこかにあるのだろう、と私たちは考えがちです。
ところが、「接ぎ木のたとえ」は、聖書全体で、ここにしかありません。「接
ぎ木する」という意味のギリシア語(「エンケントゥリゾー」)も、聖書全体
で、ここ、17節、19節、23節、24節でしか用いられていません。LXXでは、
外典の「知恵の書」16:11で、1箇所だけ用いられていますが、そこでは、「接
ぎ木」ではなく、「刺す」という意味です。ということは、「接ぎ木のたとえ」
は、パウロ独自の、聖書中でパウロだけのたとえである、ということです。パ
ウロは、異邦人伝道の体験の中で、ユダヤ人が、イエス・キリストにつまずく
一方で、異邦人が次々と救われていくさまを目の当たりにして、このたとえを
思いついたのではないでしょう。が、異邦人伝道を通してパウロが発見したこ
とは、それでも神のイスラエルへの選びは揺るがぬものであるということ、そ
して、新たな選びと言っても、それは、神においては「接ぎ木」に過ぎない、
ということでした。だとすると、ユダヤ人にも当然「再接ぎ木」の可能性があ
ります。そうなれば、そこに「大いなる喜び」があるのではないでしょうか。
この箇所を通して、神のイスラエルに対する「キンアー」の深さを私たちは
知ることができます。そして、それはわたしたちにも及ぶ神の愛なのです。
(この項、完)
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