2013年11月03日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 37回「ローマの信徒への手紙11章11〜24節」
(12/3/4)(その1)

11節a「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったことなの
か。決してそうではない。」

 9章1節〜11章終わりまで、イスラエルの選びがテーマです。イスラエルは
神に選ばれました。しかしながら、イエス・キリストにつまずきました。イエ
ス・キリストにつまずかなかった人々、つまり信仰の義を得た人は、異邦人で
したから、イスラエル、今はユダヤ人、は見捨てられ、異邦人が、もちろん信
仰の義を受け入れた人だけですが、選びの民とされる、異邦人の時代が来るは
ずでした。
 しかしながら、パウロは11:1で、そのつまずいたイスラエルは、神に退けら
れたか、選びが消えたか、という問いを投げかけ、「決してそうではない」と
きっぱりと否定しました。では、どのようにしてイスラエルの選びが継続しう
るのでしょうか。そこでパウロが持ち出してきたのが、旧約聖書以来の「残り
の者」思想でした。バビロン捕囚の際、苦難をくぐりぬけた「残りの者」が、
イスラエル再建の原動力となりました。その体験を踏まえ、イスラエルは、と
うてい耐え難い終末の裁きにおいても、神は必ず「残りの者」を用意してくだ
さる、との信仰に到達したのです。イエス・キリストの到来は、終末の裁きそ
のものでもあります。が、その裁きに耐え抜く者、すなわち、信仰の義を受け
入れる、わずかのユダヤ人、ユダヤ人キリスト者を、神は「残りの者」として
用意してくださった。イスラエルの選びは途絶えることなく、ユダヤ人キリス
ト者において受け継がれていった…、が、大多数のユダヤ人は選びから漏れて
行った。これがパウロの受け止め方です。
 ところが、パウロは、本日のテキストの冒頭、11節で、再び、「ユダヤ人が」、
イスラエルではなくユダヤ人という言い方をしているところから、イエス・キ
リストにつまずいた大多数のユダヤ人を指していることは明々白々ですが、
「つまずいたことは、倒れてしまったことなのか」と問うているのです。協会
訳は「倒れるためであったのか」と訳しており、協会訳がそのニュアンスをよ
り強く出しているごとく、ユダヤ人が将来選びの民に復帰する可能性はないの
か、と心配しているのです。しかも、「決してそうではない」と再び強く否定
しているのです。しかし、ユダヤ人が選びの民として復帰する可能性があると
言っても、それはいかにして可能なのでしょうか。が、パウロがここでそれを
強く主張するのは、パウロの同胞愛から言っているだけのものではありません。
「ねたみ理論」と「接ぎ木理論」という、おそらくパウロの長年の伝道活動の
経験からえられたのであろう、二つの理論に裏打ちされて言っているのです。
今日は、その二つの理論について見てまいりましよう。なお、新共同訳で「ね
たみ」と訳されている語、協会訳では「奮起」と訳されています。この点に関
しては、後で理由も述べますが、「ねたみ」の訳の方がより適切か、と思われ
ます。まず「ねたみ理論」です。

11節b〜15節「かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果
になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼ら
の罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら
が皆救いにあずかるとすれば、どんなにすばらしいことでしょう。では、あな
たがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒でもあるので、自分の
務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人
かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるなら
ば、受け入れることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」
 そもそも旧約聖書のヘブライ語では、「ねたみ」のことを「キンアー」とい
う語で表します。が、「キンアー」という語は、同時に「熱心」という意味を
も持ちます。が、これは、「キンアー」という語に「熱心」と「ねたみ」の二
つの意味がある、ということではありません。「ねたみの原因は熱心にある」、
あるいは「熱情がねたみを生む」という、ヘブライ人の深い、生活の知恵に根
差した洞察が、この語に込められているように思われるのです。
 箴言14:30は次のように言います。
「穏やかな心は肉体を生かし、激情(「キンアー」)は骨を腐らせる。」

 また、雅歌8;6も次のように言います。
「愛は死のように強く、熱情(「キンアー」)は陰府のように醜い。」

 ちなみに、どちらの引用も、「キンアー」を「ねたみ」と訳すことも可能で
して、熱い思いが「ねたみ」となって心を揺るがせ、体をも痛めつけていくこ
とが洞察されています。
 ところが、旧約聖書の洞察がさらに深いところは、神のイスラエルに対する
愛情が、「キンアー」の語で表現されるところにあります。たとえば、先週も
引用したイザヤ書9章ですが、「残りの者」にメシアが与えられるという預言
が、「万軍の主の熱意(「キンアー」)がこれを成し遂げる(6節)」という一文
で結ばれております。神のイスラエルへの愛は「キンアー」だったのです。

(この項、続く)



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