2013年10月27日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
36回「ローマの信徒への手紙11章1〜10節」
(12/2/26)(その2)
(承前)
この体験、イスラエルにとって重大な体験を経て、「神はイスラエルに対し
て、大きな困難、試練をお与えになられるが、しかしそれにも拘わらず、『残
りの者』を用意してくださり、この者たちを通して救いが与えられる」という
信仰、神学思想が芽生えてくることとなったのです。
たとえば、捕囚の祭司にしてエルサレム再建のリーダーであったエズラは、
「残りの者」思想を次のように表現しています(エズラ記9:13)。
「わたしたちは、数々の大きな罪科と悪事のゆえに受くべき艱難をすべて受け
ましたが、わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をそう重く見ず、
わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。」
捕囚後のイスラエルが、捕囚前のイスラエルとどこが変わったか、と言えば、
それは終末の裁きには自分たち(イスラエル)は耐えられないのではないか、と
いう自覚です。たとえば捕囚後の預言者ヨエルは次のように言っています(ヨ
エル書2:1b〜3)。
「主の日が来る。主の日が近づく。それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。
強大で数多い民が、山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなこと
は、かつて起こったことがなく、これから後も、代々再び起こることはない。
彼らの行く手を、火が焼き尽くし、彼らの後ろには燃える炎が続く。彼らが来
る前、この国はエデンの園のようであった。彼らの去った後には、滅びの荒れ
野が残る。何ものもこれを逃れえない。」
この裁きのカタストロフの中で、イスラエルには滅びだけしかないのでしょ
うか。いや、神は「残りの者」を救われます。イザヤ書9章は、その「残りの
者」思想の到達点です。イザヤ書10:21にありますように、神は「ヤコブの残り
の者」を用意されます。そして、その「残りの者」には、何と「ひとりのみど
り子、ひとりの男の子、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」た
るメシア(救い主)を与えてくださる、というのです。
パウロが引用したエリヤの物語は、捕囚期よりはるか以前の出来事です。し
かし、エリヤの物語の中に、イスラエルの滅びが危惧される中においても、神
は「残りの者」を取っておかれる、というメッセージがすでに込められている、
ということなのです。
さて、パウロの時代ですが、バプテスマのヨハネのメッセージに見られるご
とく、またバプテスマのヨハネの許に多くの者が集まったという事実に見られ
るごとく、イスラエルの危機意識、終末思想が高揚した時代でもありました。
となると、問題は、どうしたら「残りの者」に入れてもらえるか、ということ
になります。ユダヤ教の多くの人が頼ったのが、排他的ユダヤ主義の道です。
メシアを立てて、ローマを打ち破り、律法主義の国を打ち立てよう、という訳
です。この者たちこそ「残りの者」だ、という訳です。パウロもかつてはこの
道に同調していたのでしょう。しかし彼は、キリストとの出会いを通して、
「目からうろこ」、全く新しい世界に目開かれます。それは、何と「恵みによ
る選びの道」でした。
5〜6節「同じように、現に今も、恵みにより選ばれた者が残っています。も
しそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵
みはもはや恵みではなくなります。」
神のキリストによる選びは、何とも驚くべきことに、異邦人へと向かいまし
た。しかしイスラエルにも向かいました。そして、イスラエルにおいては、
「残りの者」はキリストにつまずいて棄てられた大多数のユダヤ人ではなく、
福音を受け入れた少数のユダヤ人キリスト者だったのです。その「残りの者」
に、イエスがまさにキリスト(メシア)として救いがもたらされたのです。
しかし、他のユダヤ人はどうなってしまったのでしょうか。
7〜9節「では、どうなのか。イスラエルは求めていたものを得ないで、選ば
れた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
『神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた。今日に至る
まで』と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。
『彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰
となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲
げておいてください。』」
原典は、詩編35:8と詩編69:23〜24です。本来の意味は、イスラエルの敵の
異教徒への呪いです。しかし、今は、この呪いはイスラエルの多数派に向けら
れます。しかし、なぜ、本来選びの民であったイスラエルの多数派が、呪いの
対象とされているのでしょうか。それは、敬虔、真面目と自認している人が、
自己義認という罠に落ちてしまった、ということなのです。が、ここまで来て
も、イスラエルの呪われた多数派さえも神に見捨てられてはいない、とパウロ
は言います。「なぜか」は次回に学びましょう。
結局、わたしたちが神の選びの中に入れられている、ということは、深い愛
の摂理の中に入れられている、ということなのです。
(この項、完)
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