2013年10月20日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 36回「ローマの信徒への手紙11章1〜10節」
(12/2/26)(その1)

1節〜2節前半「では、尋ねよう。神はご自分の民を退けられたのであろうか。
決してそうではない。わたしはイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベ
ニヤミン族の者です。神は前もって知っておられたご自分の民を退けたりなさ
いませんでした。」

 イスラエルの選びの続きです。イスラエルは、何とありがたくも、神に選ば
れた民でありました。にもかかわらず、イエス・キリストにつまずき、棄てら
れた民となってしまいました。しかし、そのつまずきは、イエス・キリストが
ご自身を示された時、それを拒否してしまったというつまずきに止まりません。
前回学びましたように、自然の中で、そして歴史の中で、つまり、神が異邦人
をもお用いになるという出来事の中で、すでに福音が語られていたのに聞き逃
してしまっていたのです。そして、いよいよイエス・キリストが来られた時に、
徹底的に拒絶してしまったのです。
 しかし、21節に「しかし、イスラエルについては、『わたしは、不従順で反
抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています」とあり、イスラエルが、
それにもかかわらず、実は捨てられてはいないことがほのめかされているので
すが、どうなのでしょうか。
 「本当のところ、どうなのだろうか」という疑問を受け止め、パウロは、
「では、尋ねよう。神はご自分の民を退けられたであろうか」という問いを投
げかけ、「決してそうではない」と自ら答えを出しているのですが、なぜ、パ
ウロはそのように考えるのでしょうか。
 まず、パウロは、「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベ
ニヤミン族の者です」と、自らの出自を誇ります。ベニヤミン族は、サウルや
エレミヤを出した部族で、イスラエルの誇り高き一部族です。パウロの自意識
がよく分かる箇所です。しかし、こんなものに頼っていたから、イスラエルは、
イエス・キリストにつまずいたのではないのですか。
 「しからば」ということで、パウロが持ち出してきたのが、「神は、前もっ
て知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした」と、つまり、イ
スラエルの第一の選びでした。しかし、本当にイエス・キリストにつまずいて
しまったイスラエルの民に、未だに第一の選びが生きているなどということが
ありうるのでしょうか。
 ここで、「いやそれでも有効だ」と言うために、パウロが持ち出してきたの
が、旧約聖書以来の「残りの者」思想だったのです。

2節後半〜4節「それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなた
がたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。『主よ、
彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わた
しだけが残りましたが、彼らはわたしの命を狙っています。』しかし、神は彼
に何と告げているか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分
のために残しておいた』と告げておられます。」

 ここで、パウロは列王記上19章に記されている、預言者エリヤの故事に触れ
ます。バアルの預言者との戦いに勝ったエリヤでしたが、アハブ王に命を狙わ
れることとなります。エリヤは逃げて、逃げて、逃げて、神の山ホレブに到着
します。そこでいただいた神の命令は「もう一度、もと来た道をひきかえし、
イスラエルに向かえ」でした。が、その時、エリヤは「バアルにひざまずかな
かった七千人をイスラエルに残しておいた」との励ましの言葉を、主なる神か
らいただくのです。
 このエリヤ物語に原型がある、と言われている、旧約聖書における「残りの
者」思想とは何でしょうか。そして、パウロはその「残りの者」思想を、今の
状況、すなわち、イエス・キリストにつまずいてしまったイスラエルにどのよ
うに適用しよう、と考えているのでしょうか。
 そもそも、旧約聖書ヘブライ語において、「残り」ですとか、「残りの者」
を指す語は、四つありました。「シュアール」「ペレト」「セレド」「イェテー
ル」です。この中で、最も代表的な語は、「シュアール」ですが、これら四つ
の語が用いられるのは、単純に「残りの木」とか、「ほかの人」とか、普通の
「残り」という意味で用いられるケースです。神学的な意味はない語でした。
 ところが、これらの「シュアール」を始めとする「残り」という意味の語が、
ある時代から、神学的に特別な意味合いを持つようになってきました。それは、
バビロン捕囚の時代です。この激動の時代、国は滅ぼされ、多くの者が、バビ
ロンに連れて行かれました。そして、多くの「残りの者」が出ました。バビロ
ンに連れて行かれることなく残った者、バビロンから帰還できずに残った者な
どなどです。しかしこれらの「残りの者」の中で、「バビロンに連れて行かれ、
しかも帰ることのできた『残りの者』」が、「国の再建」という、最も大きな
働きをしました。苦難を経て、しかも生き残ることのできた「残りの者」が、
イスラエル再建の礎となったのです。

(この項、続く)



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