2013年10月13日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 35回「ローマの信徒への手紙10章14〜21節」
(12/2/19)(その2)
(承前)

 が、訳されたその結果を見ると、「神の言葉」は「神の言葉」であっても、
「真理としての神の言葉」の意味合いが強いときは「ロゴス」を、「実際に語
られた神の言葉」を表すときには「レーマ」の語が用いられたようなのです。
なぜなら、「五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)」にお
いては、「ダーバール」の訳語として56対147で「レーマ」が優勢であるのに
対し、「預言者」では、320対40で、「ロゴス」が圧倒的に優勢だからです。
「五書」の時代には、神が直接に言葉でもって語り掛けてくださることが多かっ
たのに対し、「預言者」の時代には、「真理としての神の言葉」が、預言者の
口を通して語られるケースが多かったからではないでしょうか。
 そこで、17節の「キリストの言葉」の「言葉」の場合ですが、パウロも当然
この「ロゴス」と「レーマ」の使い分けが分かった上で、「レーマ」の語を用
いているのです。ということは、パウロがここで言う「キリストの言葉」とは、
キリストの十字架と復活によって示された真理そのものを指すのではなくて、
この出来事について、それが福音として福音宣教者の口にのぼって語られた、
その言葉を指す、というわけです。キリストを指し示す言葉、ということです。
 旧約聖書時代、それはキリストがまだお出でになられない時代です。でも、
パウロによれば、キリストを指し示す言葉は語られていたのです。
 以下、パウロの言うところを見てみましょう。
まず第一に、パウロは、19節で詩編19:5を引用し、キリストの、キリストを
指し示す言葉は、自然の中で語られ、イスラエルはすでにそれを聞いた、と主
張します。
 詩編19編は次のような詩です。

2〜5節「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、
夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、そ
の響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」

 天の大空を見上げたとき、そこは昼は太陽の通り道、夜は満天の星空、その
美しさと雄大さとは、創造者なる神の栄光を物語り、神のみ業の偉大さを物語っ
ている、というのです。つまり、大空すなわち自然界には、神の言葉(「レーマ
」)があふれている、というのです。キリストを指し示す言葉がすでにあふれ
ている、というのです。神の言葉を聞く敬虔さを持ち合わせているイスラエル
ならば、キリストを指し示す言葉も聞き取ってしかるべきだ、とパウロは言う
のですが、いかがでしょうか。
 さらに、キリストを指し示す言葉は、自然界ばかりでなく、歴史においても
啓示されてきた、とパウロは言います。その旧約聖書の引用を見てみましょう。
19節の引用は、申命記32:21からの引用です。申命記32:21は次のように言い
ます。

「彼らは神ならぬものをもって、私のねたみを引き起こし、むなしいものをもっ
て、わたしの怒りを燃えたたせた。それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって、
彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって、彼らの怒りを燃え立たせる。」

 ここ、申命記31:30〜32:43は、モーセの辞世の警告とされていますが、モー
セよりもずっと後の時代の無名の預言者の言葉がここに挿入されたことは明ら
かです。「彼ら」とはイスラエルの民です。イスラエルの民が偶像礼拝に走っ
たため、神のねたみが引き起こされました。神は怒られました。で、神は怒り
をどのような形で示されたか、と言うと、いわゆる異邦人の国をもってイスラ
エルを懲らしめたのです。「民ならぬ者」「愚かな国」、ずいぶん馬鹿にした
ような言い方ですが、イスラエルからこのように言われてきた国々も、神のみ
業のために用いられる時が来た、ということです。パウロはこの歴史の出来事
の中に、キリストを指し示す言葉が、すなわち異邦人の救い、のモチーフが示
されている、と言うのです。
 ゆえに、パウロによれば、イスラエルには、キリストを指し示す言葉が、自
然界を通して、歴史を通して語られていた、というのですが、イスラエルはこ
れらの言葉にどのように対応したのでしょうか。詩編19編については、詩編19
編の後半を見ればわかるとおり、イスラエルは、自然界に示された「神の言葉」
は、「律法」によりよくあらわされている、と考えました。そして、申命記
32:21の戒めは、「律法遵守」の勧め、と受け取られました。より広い、より
深いキリストの「ロゴス」、真理を受け止める備えをするのではなく、より一
層排他的な「律法主義」へと突っ走って行ったのです。
 かつて「律法主義」の立場におり、今キリストの「ロゴス」に目覚めたパウ
ロにとって、イスラエルの失敗はいたたまれないものです。捕囚後のイザヤの
言葉、65:1,2を借りて、現在のパウロの時代のイスラエルに警告を与える
ことをもって、このセクションを締めくくることとなります。イスラエルは
「神の言葉」を「律法主義」へと矮小化してしまいましたが、「神の言葉」は
今や「福音」として宣べ伝えられています。「イスラエルの人々よ、『キリス
トの言葉』に立ち帰れ。」

(この項、完)



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