2013年09月29日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 34回「ローマの信徒への手紙10章5〜13節」
(12/2/12)(その2)
(承前)

 この3か所の引用が、申命記30章11〜14節の引用だ、と言っても、もはや原
型を止めないくらいに変形されてしまっています。カルヴァンは、「引用とは
認めない」と言ったそうですが、それでもやはり、ここは申命記30章11〜14節
からの引用なのです。
 最初に申命記30章11〜14節を見てみましょう。
「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ば
ぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わ
たしたちのためにそれを取って来てくれれば、それを行うことができるのだが』
と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のか
なたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを
行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くに
あり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

 状況設定としては、モーセがその死の直前に、神によってイスラエルに語ら
せられた神の言葉の一部です。ここで問題となっているのは戒め、すなわち掟
の個個の条文です。「それが難しくない」ことのたとえとして、「天に昇って
取って来てもらわねばわからないもの」ではないとし、「遠いものではない」
ことのたとえとして、「ごく近くにある、あなたの口と心に…」、だから実行
しなさい、という訳です。14節で言う「御言葉」とは、当然11節で言う「戒め」
です。申命記30章11〜14節の本来の意味は、レビ記18章1〜5節を受けて、と
もかく神の言葉としての神の戒めを守りなさい、それは難しくも遠くもないの
だから、となります。
 この申命記30章11〜14節のパウロ的解釈については、レビ記の場合以上に本
来の意味とかけ離れています。パウロ的解釈が生まれる背景を見てみましょう。
 時代が下るにつれて、神の言葉はイスラエルに対して掟として示されるだけ
ではない時代がやってきました。預言者の言葉です。神の言葉は預言者の口を
通して、神に背くイスラエルに対する警告、そして新しい時代への希望の言葉
として示されることとなりました。が、ユダヤ教の時代になると、ユダヤでは、
律法の整備とともに、神の掟の人定法への変化、つまり神の言葉の人の言葉へ
の「成り下がり」がどんどん進行するのです。
 このような時代にあって、神の言葉はイエス・キリストに受肉し、イスラエ
ル・ユダヤ人だけではなく、すべての民に対する福音として啓示されることと
なりました。キリストは、ユダヤ人には躓きとなりましたが、パウロ自身は、
復活のキリストとの出会いを通して心開かれ、キリストを神の言葉の受肉と受
け止める立場に立っています。
 この地点に立って、パウロが先ほど引用したあの旧約聖書の御言葉を再見し
てみるとどうなるでしょうか。当初掲示された時点とは、まったく異なる様相
をもって見えてきたのではないでしょうか。最初のレビ記18章1〜5節の御言
葉は、律法主義の限界を示す言葉として、すなわち、律法主義者は掟を、条文
化された掟を守ることによってしか救われない、そしてそれは決して達成され
ることのない道である、という意味に解釈されます。次に申命記30章11〜14節
については、これから説明する意味に見えてきたのです。
 申命記30章11〜14節で言われる御言葉は、本来は戒めとして啓示されたもの
です。しかしながら、この御言葉の持つ性格は、福音に通じるものがある、と
いうことです。すなわち、とてつもなく広く深い、と同時により身近にある、
ということです。申命記30章11〜14節では、御言葉は天の上に、そして海のか
なたにまでも行き届くものでした。これがパウロにおいては、天の上と地の下、
陰府とに置き換えられます。福音は、天の上にも、そして陰府にも及んでいる、
と言うのです。なぜならキリストは陰府に降り、そしてよみがえられたからで
す。しかしながら、それでは、人も陰府に降り天にまで昇らなければ、神の言
葉、福音を聞くことができないのでしょうか。そうではありません。それは、
キリストがすでに成し遂げられたことです。ゆえに、福音は全ての人の口にあ
り、心にあるのです。つまり、福音は宣教の言葉として、教会を通して、すべ
ての人に身近なものになっている、ということです。結局、信仰による神の義
を開く神の言葉は、福音として啓示され、福音宣教によって、すべての人のも
のとなったのです。
 以下、それでは、律法主義に替わる福音宣教に、人はどのようにしてかかわ
ることとなるのでしょうか。ローマの信徒への手紙において初めて、具体的に
触れられることとなります。

9〜13節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中
から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心
で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも『主を信じ
る者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア
人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての
人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われ
る』のです。」

(この項、続く)



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