2013年09月15日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 33回「ローマの信徒への手紙10章1〜4節」
(12/2/5)(その2)
(承前)

 安息日律法(安息日には「いかなる仕事もしてはならない(出エジプト記20:10)」)
を忠実に守り通し、敵から攻められても何の抵抗もせず、ただ殺されるに任せ
た、という「美談」です。
 が、たとえ命を懸けるほどの熱心さであったとしても、神の前では、神のみ
心に適わなければ、「美談」ではありません。そして、パウロは、このマカバ
イのエピソードが「美談」ではなく、悲劇であるといっているのです。なぜな
ら、この行為は「正しい認識に基づくものではない」から、とパウロは言うの
です。それでは「正しい認識」とは何でしょうか。
 まず、協会訳聖書(1955年)と比較して読んでまいりましょう。この部分、
協会訳聖書では「深い知識によるものではない」と訳されています。原文を照
らし合わせてみると、協会訳の方が「よい(ベター)」な翻訳と考えられます。
なぜ、ベターなのか、パウロはここで何を言いたいのか、探ってまいりましょ
う。
 「正しい認識」ないしは「深い知識」と訳されている語の原語は「エピグノー
シス」です。が、パウロは「エピグノーシス」という語で何を伝えようとして
いるのでしょうか。それは「神についての知識、神を知ること」です。それゆ
え、「認識」という訳語は適切ではない、と考えられるのです。なぜなら、
「認識」という語は、明治時代までは日本になかった語で(ヘボン『和英語林
集成』参照)、明治期に導入された西洋哲学の訳語です。すなわち、「認識」
とは、「モノを知ること」を表す哲学用語です。聖書で「神を知る」というと
き、それは哲学の方法をもって神を知るのではありません。それゆえ「知識」
という訳語の方がベターなのです。
 そもそも旧約聖書では、「知識」に当たる語は「ダーマト」と言います。そ
のもとになる「知る」という動詞は「ヤーダー」です。「ヤーダー」は不思議
な語です。わたしたちが「見て知る」「聞いて知る」というように五感を通し
て知ることも「ヤーダー」と言います(創世記4:9)。しかし、「ヤーダー」
は、日本語で言うと「わかる」とか「悟る」というニュアンスが非常に強い語
でもあります。それゆえ、見たり、聞いたりしなくとも、「ヤーダー」するこ
とがあります。たとえば、創世記48:19、年老いたヤコブがヨセフの二人の子に
祝福を与える場面ですが、ヤコブは見ても聞いてもいないのに、二人の子の子
孫の将来を「ヤーダー」して、弟に先に祝福を与えてしまうのです。この
「ヤーダー」のニュアンスをもっともよく表す用例は、「性の交わり」を表す
ときに「ヤーダー」の語が使われる、ということです(創世記4:1など)。
要するに、「本質がズバッと分かってしまう」、これが旧約聖書で言う「知る」、
「ヤーダー」の意味合いです。
 ゆえに、神と人間との関係も「ヤーダー」の関係であるべきです。この関係
にあるとき、それを人間の側から言えば、「神についての知識を持っている」
「神を知る」ということになるのです。そして、旧約聖書では「主を知る」で
すとか「主の名を知る」という表現がよく出てきますが(出エジプト記7:5
ほか多数)、それは、幻視体験によって神を見たなどということではなく、ズ
バッと神の力、恵み、意思が分かること、言い換えれば、神を畏れ(申命記
4:39)、それゆえに自分が何をしたらよいかわかるようになること(エレミヤ
書22:16)を意味するのです。
 もちろん、神がまず先に人間を「ヤーダー」しておられます。そして、その
神の「ヤーダー」こそ、選びなのです。
 さて、それでは神と人とはいかにして「ヤーダー」の関係に入ることができ
るのでしょうか。それこそ、人と人との「ヤーダー」の場合そうであるように、
互いの信頼そして信仰によるもののはずなのですが、後のユダヤ教の時代にな
ると、信頼関係を得るための「ハウツー」が問われることとなってきました。
ラビは、人が、もちろんここでの「人」はイスラエルの意味ですが、神と「ヤー
ダー」の関係に入るためには、まず「律法」の要求を知る(「ヤーダー」)こ
とが必要だ、と考えました。「律法」の要求を知る(「ヤーダー」)ためには
どうしたらよいでしょうか。律法についての知識が必要です。律法についての
知識を得るためにはどうしたらよいでしょうか。それは教育です。教育を受け
るためにはどうしたらよいでしょうか。1.「子どもの心」「弱い心」ではいけ
ません。2.愚かではいけません。3.教育を受ける機会がなければいけません。
こうして、ラビたちは、イスラエルの中においても、神と「ヤーダー」の関係
に入ることができる者を制限し、そして神と「ヤーダー」の関係に入ることが
できない者を排除していったのです。律法を知らない、知ろうとも思わない異
邦人など問題外です。こうして、「ヤーダー」は、本来は喜びの出来事であっ
たはずなのですが、特権階級のものとなり、「ヤーダー」のあるなしで、差別
が始まりました。「ヤーダー」は差別の手段となってしまったのです。

(この項、続く)



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